神は思いひとつで、これだけの壮大な宇宙と多種多様な生物を創れられています。「思いがすべて」とはいうものの、神の思考の力と私たちの思考の力とでは雲泥の差があるように思われます。しかし、事実は、神の思考の力と人間の思考の力に差はなく、まったく同じなのです。
なぜなら、神が人間を創られた目的が神の自己表現の担い手(代理人)にするためだからです。もし、神と人間の思考の力に差があれば、神の自己表現が中途半端なものになってしまいます。これでは、せっかく神が人間を創り、人間に自分と同じ100%の思考の自由性を与えられた意味がありません。「100%の思考の自由性は与えるけれど、思考の力は50%に制限するね」などと神が考えられるとは到底思えません。さらに付け加えれば、そもそも思考そのものが直接的に創造の力を持っているわけではありません。
思考とは万物の唯一の素である原始物質(神の光・霊子)に凝集の起点となる振動を与えるものであって、その振動を受けた神の光が凝集をし始めて素粒子となり、原子となり、分子となり、やがて物質化するのは思考の力によるのではなく、神の光(=神)そのものの働きによるのです。すなわち、万物を創造する力はあくまでも神そのものに属しているということです。
創造(物質化)は神の創造の力の働きによるものではありますが、その力を起動させるのは思考であり、この思考そのものに関しては神の思考であれ、人間の思考であれ、そこにはいささかの違いもないということなのです。あるとすれば、その中身です。中身は、それこそヘリコプターとトンボ、あるいは最先端の化学プラントと人体の仕組みくらいの圧倒的な智慧の差があります。
ちなみに、思考の力とは直接物を創る力ではなく、創造のプロセスを起動させるものにすぎないものの、しかし、この思考の力なくして物はできませんので成功と繁栄の哲学においてよくいわれる「思考には創造の力がある」とか「思考は物である」という言葉は当を得た表現といえます。
なお、トーマス・トロワードは「神の思考の力と人間の思考の力は同じか否か」という命題について次のようにきわめて論理的かつ明快に論じています。
「これまで述べてきた新思想における重要な公理の一つは、私たちの「思考」には創造の力があるということであり、すべてはこれを基礎にしていますので、この公理については慎重に検証する必要があります。さて、出発点は、思考という純粋に精神的な作用が、現在存在するすべての被創造物が出現するに至った唯一の源であることを理解することです。そのために、私はこれまでの講演で、宇宙の始まりを強調してきたのです。従って、この点については改めて言及する必要はありませんので、今回は、すべての存在は本質的に「神の思考」が現象化したものであるという前提で考察を開始することにします。
この前提から言えることは、私たち自身の心も「神の思考」の結果であるということです。すなわち、神の思考は、“それ自身が考えることができるもの”、すなわち人間を生み出したのです。しかし、問題はその“神の思考の産物である私たち自身”の思考が神の思考と同じ創造性を持っているかどうかということです。
さて、この(すべての存在は神の思考の現われであるという)仮説に立てば、すべての創造的プロセスは、普遍的な神が個別かつ特定のものを通して現れることであり、それゆえ、そのさまざまな形態の存在の一つ一つが神の生命であり神の実体そのものなのです。したがって、もしさまざまな形態の存在に思考力があるとすれば、それは原初の神の思考力と同じものであるということになります。もし、これより低次ものであるならば、それはある種のパターンにすぎず、思考力とはいえません。したがって、思考力があると言うからには、それは原初の神と同一レベルのものでなければならないのです。「人間は神に似せて創られた」と言われるのはこの真実ゆえのことであり、これ以外の存在ではありえないことを理解すれば、そこに多くの重要な推論を導き出すための確固たる土台を見出すことができます。」<『The Dore Lectures on Mental Science』第6章「思考の創造的力」の私訳抜粋>
私たちの思考は神と同じく無からの創造をなすことができるものであり、この事実を100%確信することができれば、私たちは人生を自分の望ましいものにすることが可能となります。