前述の考察が神学的な思索の線上にあることは認めざるを得ませんが、受講者の皆さんは精神科学者として、最も高貴な霊的現象でさえも、普遍的な自然法則の働きであるという純粋に科学的な観点から考察すべきであることを心に留めておく必要があります。このように、自分が目にする事実をシンプルに科学的に取り扱えば、神学的な多くの記述の真の意味が明らかになることは間違いありません。しかし、かといって自然の個別的側面であれ、非個別的側面であれ、法則を用いたり理解したりする際に、わざわざ神学的な説明を加える必要はありません。
万物に内在する普遍的な根源的精神(神)の個別的な性質は、あまり強調することはできませんが、それを扱う際には、人間であれ、動物であれ、物であれ、あらゆるところに多種多様な形で現れている純粋な自然の力を扱っていることを忘れてはなりません。いずれの場合でも神が個にとってどのようなものになるかは、神に対する個の認識によって正確に決まります。(人間なら人間という)種の個と全体にとって、神はサポーターという関係にありますが、個の認識力の限界が、両者の関係の限界となります。しかし、個の認識力が拡大するにつれて、神の知的な力もその個に対応して拡大し、それは次第に、個別化された心と、その源である個別化されていない神の心との間に親密な対応関係があるという意識へと発展していきます。
さて、これはまさに、宇宙(神)の心が主観的な心であると仮定した場合に、通常の科学的原理(主観的な心と客観的な心の関係性)に基づいて、個と宇宙(神)の心の間に見出されるはずの関係性であり、すでに述べた理由により(訳注:第4章、第5章参照)、これ以外の観点から両者の関係を見ることはできません。主観的な心である神としては、個の客観的な心(表面意識+深層意識)が、個の主観的な心(潜在意識)を通して自分に印象づけた概念(考え)を正確に再現しなければならず、その創造的な力でこの概念を外在化します。
「人の数だけ意見あり」で、一人一人が自分の外的環境下において神に対する自分の考え(概念)を正確に外在化しています。そして、心の自然法則によって、神の心を自分の心と完全に相互作用させることができることを理解した人は、一方で神の心を無限の導き(instruction)の源とし、他方で無限の力(power)の源とすることができます。かくして彼は、自分の個としての心と神の心の間で、人格的な側面と非人格的な側面をそれぞれ賢く使い分けます。導き(guidance)や力(strength)を求めているときは、自分の心を、大いなる神の心の優れた智慧と力から人格を受け取ることのできる非人格的な要素と考えます。一方、このようにして得られたものを外部へ発現したい(現象化させたい)ときは、立場を逆転させて、自分の心を人格的な要素(客観的意識)と考え、大いなる神の心を、自分の個人的な願望を印象づけることで確実に現象化の指示出しをすることができる非人格的な要素(主観的意識)と考えます。(訳注:神の優れた智慧と力を受け取る時は自己(客観的意識)を消し込み無我(主観的意識との同通状態)となり、願望実現の時は客観的意識を用いて願望を明確化し、主観的意識(神)にその願望を印象付けるということです)。
さて、この結論の偉大さに、私たちはとまどう必要はありません。というのも、それは主観的な心と客観的な心の間の自然な関係から必然的に導かれることだからです。唯一の問題は、私たちの視野を後者の低いレベル(個の客観的意識)に限定するのか、それとも主観的な心が私たちにもたらす無限の可能性を取り入れることができるよう拡大するのかということです。(訳注:要は、この世的な視点に捉われた思考をするのか、それとも真理的な霊的視点をもとに思考するのかということです。ジェームズ・アレンの言葉を借りれば、自己を主君とするのか、それとも真理を主君にするのかということです(『平和への道』第2章参照)。)
私がこの問題を長々と取り扱ったのは、供給の法則と直観の性質という2つの非常に重要なテーマの鍵を握っているからです。受講者の皆さんは、心が人生環境に影響を与えることよりも、心が身体の健康に影響を与えることの方が理解しやすいと感じることが多いと思います。もし、思考力の働きの対象が個の心だけに限定されていたなら、このような困難さ(心が人生環境に影響を与えることを理解する困難さ)が生じるかもしれません。しかし、精神科学を学ぶ受講者の皆さんが他の教訓よりも心に留めておくべきことがあるとすれば、それは私たちの思考力の働きの対象が個に限定されてはいないという事実です。個は、自分よりも無限に大きな力を働かせるために、無限の存在である神に指示を与えることができるのであり、神は、それ自体が知的でありながらも非人格的であるがゆえに、その個の人格(思考)を受け入れます。そして、その外在化のために、対処すべき状況に対する個の客観的な認識の限界をはるかに超えて、その力を発揮します。
そのために、私は神の心における2つの明らかに相反するものの組み合わせ、すなわち知性(訳注:人格=知性+意志。第7章参照)と非人格性の結合を非常に重視しているのです。神の知性は、私たちの思考の印象を受け取るだけでなく、その印象を外在化するための適切な手段を考案します。これは、無限の生命でもある無限の知性に対処していることの論理的な結果に他なりません。生命は力を意味しますので、無限の生命は無限の力を意味します。そして、無限の知性によって動かされる無限の力が、その目的を達成する前にその働きを止めることはあり得ません。したがって、神の心に私たちの意図(思考)を伝えることができれば、その最終的な達成について疑いを入れる余地はありません。そこで、今度は神の側の意図とは何であるかが問題となります。それを知るにはどうすればよいのでしょうか。
ここで、非人格的な要素が入ってきます。神の心は非人格的であるがゆえに、意図を持つことはありません。すでに述べたように、神の心は、種の進化のために平均の法則で働き、個の特定の願いには決して関わりません。したがって、もし、個の願いが永遠の原理の流れに沿ったものであれば、その実現を制限する力は自然界のどこにもありません。しかし、もし、個の願いが永遠の原理の流れに反するものであるならば、その願いは個を原理に衝突させ、原理がその個を押しつぶすでしょう。
これらの関係から、個の心に意志として現れる同じ原理が、神の心では傾向性の法則となり、この傾向性の方向とは、神が宇宙の生命の源であることから、常に生命を与えんとするものであるという結論になります。したがって、私たちの特定の意図が、常にこの神の生命志向と同じ方向にあるかどうかが試されます。もし、同じ方向であれば、神が個の心の意図を妨げようとすることはないと断言できます。私たちが相手にしているのは純粋に非人格的な力であり、蒸気や電気がそうであるように、それが自らの特定の計画によって私たちに反対することはありません。神のこの2つの側面、つまり完全な非人格性と完璧な知性を組み合わせると、まさに私たちが求めている自然の力が見えてきます。神は私たちがその手に委ねたものは何でも、質問したり条件を出したりすることなく引き受けてくれるのであり、私たちの仕事を引き受けた後は、全人類の知識を結集したとしてもそれが無に等しいほどの知性と、この知性に等しい力を発揮してくれます。大雑把な表現になってしまいましたが、私の目的は、受講者の皆さんに自分が使える力の性質とその使い方を理解してもらうことであり、そのために、総括として次のように述べることができます。
あなたの目的は、宇宙全体を動かすことではなく、肉体的、精神的、道徳的、あるいは経済的な特定の利益を、あなた自身あるいは他の誰かの人生に引き寄せることであるはずです。この個人の観点から見ると、神の普遍的な創造力は、それ自身が個別的な意図(目的)を持つことはないので、代わって、あなたがその目的を作ることができます。このようにして目的が作られると、神は創造的な力の源としての立場を放棄することなく、伝えられた目的を遂行するためにすぐに仕事を始めます。そして、この目的が、最初にそれを生じさせた私たち自身によって消滅させられない限り、神は成長の法則によってその目的を現象化させるべく働きつづけます。
この偉大な非人格的な知性を扱うことは、無限を扱うことであり、無限とはすべての点に接するものである(すなわち、すべての点が無限の中心である)ことを十分に理解しなければなりません。これが理解できれば、この知性が目的のために必要な手段を世界の果てからでも集めることができることを理解することに何の困難もないはずです。それゆえ、結果が生成される法則を理解しつつ、いかなる場合でも、どのような具体的な手段が取られるのかといった疑問は断固として排除しなければなりません。これを疑問視することは、私たちが最初に根絶しなければならない疑念の種を蒔くことになります。したがって、私たちの知的な努力は、望ましい結果を生み出すためのさまざまな二次的原因として、何が必要で、それはどこから来るべきかを予測することではなく、二次的原因の列車が動き出す一般法則の理論的根拠をより明確に理解することに向けられるべきです。前者の方法では、知性は成功の最大の妨げとなります。というのも、知性は、その時点ではまったく視野に入っていない特定の事柄を把握しようとするため、疑いを深めるのに役立つだけだからです。しかし、後者の方法であれば、知性は、それなしでは成長の法則が働くことのできない核を維持するための最も重要な助けとなります。私たちの知性は、自分が述べることのできる事実からしか推論することができないため、外面的な感覚(五官)を通してまだその存在を知ることのできない事実からは、いかなることも推論することができません。しかし、同じ理由により、まだ顕在化していない状況を顕在化させることのできる法則の存在を認識することはできます。このように正しい秩序で用いられると、私たちの知性はすべてのものの目に見えない実体を操作する私たちの内奥にある力(訳注:神の創造的力)の召使になります。これを私たちは相対的な第一原因と呼ぶことができます。(訳注:相対的第一原因とは、神の代理人としての個別的存在である人間が絶対領域において形成する思考のことです。第9章参照。)