5-4-1-5.第5章「主観的精神と客観的精神のさらなる考察」

催眠術の現象をよく考えてみると、私たちが催眠状態と呼んでいるものが、主観的精神(主観的な心・潜在意識)の正常な状態であることがわかります。主観的精神は常に、自分に伝えられた暗示(示唆)、あるいは、意識的であれ無意識的であれ、それを支配する客観的精神(客観的な心=表面意識+深層意識)の状態にしたがって自分がなすべきことを認識し、それに対応した結果を外部に生じさせます。実験的な催眠術によって引き起こされる(訳注:ネコと言われればネコになりきるような)状態の異常性は、個人の客観的な心が主観的な心に対して与えている通常の暗示が、(催眠術師などによる)別の暗示に置き換えられることによって生じます。つまり、主観的な心の特徴は、常に、自分に与えられた暗示に従って働く点にある言えます。それゆえ、どのような内容の暗示が、どのような源から主観的精神に与えられているのかを見極めることが、最も重要な問題となります。しかし、暗示の源を考えるより以前に、主観的な心が自然の摂理の中でどのような位置を占めているのかをもっとよく理解する必要があります。

もし、受講者の皆さんが、すべての空間に普(あまね)く行き渡りすべての物質に浸透しているところの知的な精神の存在についてこれまで語られてきた講義内容を十分に理解していれば、この全宇宙に遍満している精神が普遍的かつ主観的な精神であることを認識するのに、困難はほとんどないはずです。また、それ(全宇宙に遍満している精神)は普遍的精神(=絶対的存在)であるがゆえに、客観的精神(=相対的存在)の性質を持つことができないこともきわめて明白です。普遍的精神は、自然界全体にわたる創造的な力です。そして、起源の力として、普遍的精神は最初に(相対的存在としての)客観的精神が自分の個性を認識することができるようになるための様々な形を生み出し、その後、個々の客観的精神が普遍的精神に反応できるようになります。それゆえ純粋な精神あるいは(最初に万物を生み出した)第一原因としての精神は(相対的なものではない絶対的な)主観的精神以外の何ものでもないことがわかります。

そして、主観的精神が身体の建造者であるという、(一連の催眠術)実験によって十分に証明された事実は、内からの成長による創造の力が、主観的精神の本質的な特徴であることを示しています。実験の結果からも、先験的な直観による推論からも、宇宙という大きなスケールであれ、個人という小さなスケールであれ、創造的な力が働いている場所には必ず主観的精神が存在していることがわかります。したがって、第2章と第3章で考察してきたすべてのものに浸透している知性とは、純粋に主観的な精神であり、どんな暗示にも従順で、自分に与えられた暗示を最も厳密に論理的に実行するという主観的な精神の法則に従います。普遍的精神に関わるこの真理の計り知れない重要性は、一見すると受講者の皆さんには分からないかもしれませんが、少し考えれば、そこに秘められた巨大な可能性を知ることができます。

そこから得られる非常に重大な結論についてはこの章の最終節にて簡単に触れることにしますが、差し当っては、私たちの中の主観的な心は、宇宙全体で働いている主観的精神と同じであり、私たちを取り巻いている無限の自然の形態を生み出し、同様に私たち自身をも生み出していることを理解すれば十分でしょう。それは、私たちの個性を支えるものと呼ぶことができ、また、私たち個人の主観的な心は、普遍的精神の私たち個人への割り当て分とおおまかに表現することもできます。もちろん、これは普遍的精神の分割を意味するものではありません。私が第3章で普遍的精神の本質的な単一性を論じたのは、この誤解を避けるためです。しかし、受講者の皆さんの進歩の現段階では、あまりにも高度な抽象的概念を避けるために、私たちの内なる主観的な心(潜在意識・仏性・真我)は、普遍的な主観的精神の個人的な持分という考えを方便として採用してもよいでしょう。

このように自分の主観的な心を理解することは、第一原因を意識的に利用すること、つまり自分の思考の力で外部の結果を生み出すことを試みるうえで大きな助けになります。究極的には第一原因はたった一つしかあり得ず、それは普遍的な主観的精神なのです。しかし、普遍的精神は普遍的であるがゆえに、個別的で相対的な領域において作用することはできません。普遍的精神にとって、個別的で相対的な領域で作用することは、普遍的なものではなくなるため、私たちが利用したいと思っている創造的な力ではなくなってしまいます。一方、私たちがある特定の目的を実現しようと努力しているということは、この普遍的な力を特定の目的に適用して使おうとしていることを意味します。その結果、私たちは普遍的なもの(絶対的なもの)を特定の面(相対的な領域)で作用させようとするパラドックスに陥ることになります。つまり、私たちは、自然のスケールの両極である、心の最も内なる(絶対的な)創造的精神と(相対的な)特定の外的形態とを接合したいと考えているわけですが、この二つの間には大きな溝があり、それをどのようにして埋めるかが問題となります。

ここで、私たち個人の主観的な心を、普遍的主観的精神の私たち個人の持分とする概念がこの困難を克服するための解決策となるのです。私たち個人の主観的な心は、一方では普遍的精神と直接つながっており、他方では個人の客観的な心、つまり知的な心(表面意識)とも直接つながっているからです。次に、私たち個人の客観的な心は外なる相対的で物質的な世界と直接つながっています。かくして、個人の主観的な心と客観的な心の関係が、私たちの内と外の両極を結ぶのに必要なブリッジを形成することになります。

したがって、個人の主観的な心は、客観的な心が相対世界の器官であるのに対して、絶対世界の器官であるとみなすことができます。そして、この2つの器官を調和させて利用するするためには、”絶対的 “と “相対的 “という言葉の実際の意味を正しく理解することが必要となります。絶対的なものとは、他の何かとの関係ではなく、それ自体が独立して存在し、それ自身が本質そのものであるものです。相対的なものとは、他のものと関係しており、特定の環境の中で存在しているものです。絶対的なものは原因の領域にあり、相対的なものは条件の領域にあるものです。したがって、(条件は思考という原因によって生じるものなので)条件をコントロールしようと思えば、それは絶対的な領域において作用することのできる私たちの思考の力によってのみ可能であり、しかもそれは主観的な心を媒介してのみ可能です。思考の創造的な力を意識的に使うことは、絶対的領域において考える習慣を身につけることであり、それは、私たちの二つの心の相互作用を明確に理解することによってのみ得られます。この目的のために、受講者の皆さんは、創造的な力としての主観的な心が、どのような規模であれ、客観的な心からの暗示に非常に敏感であり、最も深く印象づけられた暗示の外在化に正確に働くことを、いくら強く自分自身に刻み込んだとしても、し過ぎるということはありません。もし、ある考えを、周囲の環境条件によって限定され制限されている相対的な領域から取り出して、いかなる制限をも受けることのない絶対的な領域に移そうとするならば(願望実現の原因を生じさせたいのであれば)、私たちは心の構造を正しく認識したうえで、以下に述べるような明確に定義された方法でそれを行う必要があります。

願望の対象となるものは、必ず最初は、既存の状況に関連するものとして考えられますが、私たちが望むことは、偶然ではなく確実にその願望を達成することです。それには絶対的領域において原因を生じさせる必要があります。その方法は自分の主観的な心(潜在意識)に、何の条件もつけずに自分が願うもののアイデアを印象付けることです。何の条件もつけずにという条件的要素の切り離しは、時間の概念の排除を意味しますので、願望はすでに実際に存在しているものとして考えなければいけません。そうでなければ、意識的に絶対的な領域で作用していることにはならず、思考の創造力を使っていることになりません。

ところで、このような思考習慣を身につけるための最も簡単な方法は、現存するすべてのものの霊的な原型が絶対的領域に存在し、それが外部の存在として現れるもののもとになると考えることです。このように、霊的原型を物事の本質的な存在と見なし、物質的な形態とは、この原型が外に表現されるように成長したものと見なすことを習慣づけるならば、あらゆる外的事実の生成の最初のステップは、その霊的原型の創造でなければならないことがわかります。この原型は、純粋に霊的なものであるため、思考の働きによってのみ形成され、霊的な領域で実体を持つためには、実際にそこに存在するものとして考えられなければなりません。この考え方は、プラトンの原型論や、スエーデンボルグの対応関係理論で説かれていますが、今もなお偉大な先生である聖書は、「あなたがたが祈り求めるすべてのものは、それを受け取ったと信じなさい。そうすれば受け取るでしょう」といっています。この一節の時制の違いに着目してください。話し手(聖書)は、まず自分の願望がすでに達成されたものであると信じよ、そうすれば、それは未来において実現するといっています。これは、普遍的主観的精神に、特定のものを、すでに存在する事実として印象づけることによって思考の持つ創造力を利用するための簡潔な指示に他なりません。この聖書の指示に従うならば、私たちは絶対的な領域で考えていることになり、さまざまな制限や不測の事態を招きかねない条件を頭から排除することができます。かくして私たちは、そのままにしておけば、必ず発芽して外に向かって結実する種子を植えることができるようになります。

このようにして主観的精神(潜在意識)を知的に利用することで、いわば物質化の核(原因)を創るのですが、核は創られるやいなや、自分と同じような性質の物質を引き寄せる力を発揮し始めます。このプロセスが(客観的な心によって)邪魔されることなくつづけば、この核の性質に対応した外見的な形が、客観的相対的な領域に現れてくることになります。これは、あらゆる面における自然の普遍的な摂理です。

現代物理学の最先端の研究者たちは、世界の最初の起源という大きな謎の解明において、無限に微細な原始物質から「渦輪(かりん)」と呼ばれるものが形成されていると仮定しました。彼らによると、この渦輪がいったん極小のスケールで形成され、回転させられると、純粋なエーテルの中を、摩擦を受けることなく動くので破壊されることなく、永久に動きつづけるに違いないということです。そして、このような渦輪が互いに2つ近づけば、引き寄せの法則によって一体となり、それがつづいて最終的には私たちが外部感覚で認識できる顕在化した物質が形成されます。もちろん、この渦輪を肉眼で見たことがある人はいません。これらは諸現象を観察して得られた物理法則や数学的アプローチを突き詰めることで得られる、抽象概念の一つです。私たちは目に見えない他のものの存在の仮定なしには、目に見えるものを説明することはできません。渦輪はこれらの仮定の一つです。この理論は、精神科学者ではなく、物理学者が純粋に研究し、究極の結論として提唱したものです。その結論とは、自然界の無数の形態は、無限に微小な核である渦輪に由来するというものですが、しかし、渦輪が最初にどんな手段によって生じたのかという問題には物理学は関心を払っていません。

渦輪理論が無機物(無生物)の世界の成り立ちを説明するように、生物学は生物の成り立ちを説明します。生物学の理論もまた原初的な核に由来するもので、この核は創られるや否や、完全な個体を構成するうえで必要なすべての身体器官を形成するための引き寄せの力の中心として働きます。胎生学では、この法則が人間を含めた動物界全体で例外なく当てはまることが示され、植物学では、この法則が植物界全体に作用していることが示されています。物理科学のすべての分野において、どんな種類のどんなスケールのものであっても、「現出したものはすべて、限りなく小さいものの、止むことのない引き寄せの力を持った核の成立から始まり、それが、成長のプロセスが完了して、成熟した形態が完成形として現れるまで、着実に力を発揮しつづけたその結果である」ということが証明されています。

もしこれが自然界の普遍的な摂理であるならば、物質的な核の形成よりもさらに遡った前段階で何らかの作用が始まらなければならないと考えることができます。その作用があってはじめて、物質的な面で引き寄せの法則が作動し始めるのです。では、この物質的な核を発生させるもとの力とは何でしょうか。その答えを最近の物理学の研究成果に見てみましょう。

「エネルギーは、その究極的な本質において、私たちが心や意志と呼ぶものの直接的な作用の表れとしてでなければ、私たちには理解できないかもしれない」。これは、J.A.フレミング(フレミングの法則の発見者)が1902年に英国王立研究所で行った 「水の波、空気とエーテル 」と題した講義内容からの引用です。ここに、すべての現象の起源となるエネルギーとは心や意志の働きであるという物理科学上の証言があります。心の働きが大元の核を創り、それがそのまま成長していけば、やがて目に見える形で現れるために必要なすべての条件を自らに引き寄せることになるという考えは、人間の直観からの論理的な推論であるだけでなく、最先端の物理科学の成果とも合致しています。

ところで、心の唯一の作用は思考です。つまり私たちは私たちの思考によってそれに見合った外的条件を創り出しているのです。なぜなら、私たちが思考によって創り出す核が、完成した形態が外面に現れるまで、適切なプロセスでそれ自体に対応するものを引き寄せるからです。これは、自然界において見られる普遍的な成長の法則に厳密に従ったものであり、したがって、「私たちが何かを考えることが、その霊的原型(核)を形成し、それが、その原型自体に内在する成長の法則によって最終的に外に現れるために必要なすべての条件を引き寄せる」と述べることで、この章の議論の簡潔なまとめとします。

第6章「成長の法則」はこちら

タイトルとURLをコピーしました