5-4-1-2.第2章「高次の知性が低次の知性をコントロールする」

私たちの内にある人格から、私たちが無生物と呼んでいる物質までの間には、知性の尺度において、新たな因果関係を生み出す能力としての自分の意志力を認識できる段階から、自分自身を全く認識できない段階まで無数の階梯があることを見てきました。生命の発現レベルが高ければ高いほど、知性も高くなります。このことから、生命の原理は知性の原理でもあるはずです。このことは、宇宙の壮大な自然の秩序にはっきりと示されています。現代科学に照らし合わせてみると、進化の原理は誰もがよく知っていることであり、宇宙の仕組みの精緻な調整システムは、わざわざ言及する必要もないほど明らかです。科学の進歩はすべて、この壮大な普遍的秩序の精妙さを新たに発見することにあります。この秩序はすでに存在していて、私たちがそれを応用するための認識を必要としているだけです。もし、最も進化した知性(人間)の最高の仕事が、すでに存在する宇宙の秩序を認識することに他ならないとすれば、この宇宙の秩序として現れている生命原理には、“最高の知性”が内在しているに違いないという結論から逃れることはできません。つまり、万物の根底には、偉大なる宇宙の知性(叡智)がなければならないことが分ります。

私たちの地球の物理的な歴史を見ると、最初は広大な無限の空間に散らばった白熱星雲があり、それが後に凝縮されて中央に太陽ができ、その周りにほとんどまだ流動状態の原始物質が固まりきらずに光り輝いている惑星群がいて、その後、無数の年月をかけてゆっくりとした地質学的形成が行われました。地球には植物性であれ動物性であれ、最も低い形態の生命体が住み、その原初的な始まりから、壮大で、絶え間なく、急ぐことなく前進する宇宙の働きが、現在私たちが知っているような万物の今の状態を創り出しています。

このように着実に進展していく様(さま)を見ると、進化の原理はどのように考えても、間違いなく「種」の持続的な発展のために作用していることがわかります。しかし、それは、個に起こりうるあらゆる事態を想定した上で、その種が持続していけるような個体数を種ごとに創り出すことでその働きをなしています。「進化の原理は、種の維持には注意深くあっても、その種の個の生命にはあまり注意を払っていないように思えます。」つまり、宇宙の知性は、個に起きる事故や失敗による死滅を想定し、歩留まりを大きくとって、「平均の法則」で作用していると言えます。

しかし、より高度な知性への進化は、常にこの事故に対する歩留りを狭める方向にあり、個を平均の法則から遠ざけ、個の選択の法則に置き換えていきます。通常の科学用語で言えば、これは適者生存です。魚の産卵数は、すべての個体が生き残ると海が窒息してしまうほどのスケールですが、それ相応に捕食されたりする割合も大きいため、平均の法則によってその種として正常な比率に維持されます。しかし、生殖スケールの一方の極(きょく)においては、生殖数が生存数を大幅に上回ることは決してありません。確かに、事故や病気で平均寿命に達する前に何人もの人間が死んでしまうことは十分にあり得ますが、一人が生き延びるのに何十万人もが早死にするということはありません。魚の場合とは、全くスケールが違います。それゆえ、知能が進歩するにつれて、個は単なる平均の法則の対象から外れ、自分の生存条件をコントロールする力がどんどん強くなっていくことは、確立された事実として受け止めることができます。 

つまり、宇宙の知性と個の知性は明確に区別されており、後者と前者を区別する要因は個の意志の存在であることがわかります。さて、精神科学の仕事は、この個の意志の力と、種の維持と発展を支える偉大な宇宙の法則との関係を明らかにすることです。そして、十分に注意すべき点は、個の意志の力は、それ自体が、宇宙の進化の原理が最高レベルに達した時点での成果であるということです。地球上に最下層の生命体しか存在しなかった時代から、自然の努力は常に上を目指し、今では、抽象的な思考ができる心と、その心の物理的な道具に適した脳を持つ生物(人間)を生み出すことで頂点に達したのです。

この人間の段階において、すべてを創造する神の生命原理は、進化の法則の働きを認識できる人間として姿を現しています。そして、今日に至るまでの進化全体を貫く目的の単一性と連続性を見ると、宇宙の仕組みの中でのこのような人間という存在の役割は、疑いもなく、これまで欠落していた要素、すなわち知的な個の意志という要素の働きを導入することでなければならないことが分かります。ここに至るまでの進化は、宇宙的な平均の法則によるものであり、個が意識的に関与することのないものでした。しかし、今や人間とはそういう存在であり、進化の列の先頭に立っている以上は、人間がさらに進化するとすれば、それは自分をその法則の存在を認識できるところまで育ててくれた法則に意識的に協力することによってのみ可能ということになります。私たち人間の未来における進化は、偉大なる神の仕事に意識的に参加することによってなされるものであり、それは私たち自身の知性と努力によってのみ達成されるものであるということです。

それが知的成長のプロセスというものです。誰かが私たちに代わって成長してくれるわけではなく、各自が自分自身で成長しなければなりません。そして、その知的成長とは、私たちをここまで成長させてきた普遍的な法則と、私たち自身がその法則の最も進んだ産物であるという事実に基づいた、その法則と私たち自身との関係の認識を高めることにあります。「自然が私たちに従うのは、初めに私たちが自然に従うのに正確に比例している」というのは、偉大なる格言です。電気技師が、電気は常に高い電位から低い電位に流れるという原理に逆らえば、何もなし得ませんが、すべての点においてこの基本的な原理に従えば、どんな特殊な電気の使い方でもできるようになります。

これらの考察は、高い知性と低い知性を区別するものは、自分という存在をどのように認識するかにあり、その認識がより知的であればあるほど、その知性の力はより大きくなることを示しています。自己認識のレベルが低いと、自我と非自我を区別し、自分を他のすべての存在から独立した存在としてのみ認識します。しかし、より高度な自己認識では、自分の霊的な本質を自覚し、他のすべてのものを、非自我あるいは自分ではないものというよりも、別の自我あるいは表現方法の異なる別の自分として見ます。さて、この高度な自己認識こそが、精神科学者が成果を出すための力なのです。だからこそ、「形」と「存在」の違いを明確に理解すべきなのです。「形」は相対的なもので、条件に従いますが、「存在」は絶対的なもので、条件を支配します(訳注:「存在」とは心の思いそのものであり、それがこの世的な条件となり、形を取って現れます)。

ところで、自分を純粋な精神(神)が個別化したものとみなす高い自己認識は、まだこのレベルの自己認識にまで達していない他のすべての存在を必然的にコントロールすることになります。これらの低次の精神レベルにあるものは、精神の法則を知らず、肉体的存在の法則に縛られています。それゆえ、精神の法則を知ったものは、精神の法則をとおしてそうでないものをコントロールすることができるのです。しかし、これを理解するためには、普遍的精神(神)の知性についてもう少し詳しく調べる必要があります。

私はすでに、宇宙の仕組みのあらゆる部分が互いに適応し合い、調整し合っている壮大なスケールを見れば、全体を支える驚異的な知性がどこかに存在しているはずであると述べましたが、問題は、その知性がどこにあるのかということです。最終的には、その知性とは、物理的な目に見えるかどうか、あるいは科学的に認識可能な現象から必然的に推測できるどうかにかかわらず、私たちが知っているすべての物質の根源である何らかの原初的な物質に内在しているものと考えるしかありません。それは、すべての種やすべての個体において、その種やその個体になる力であり、したがって、それは、それぞれのものがそのものとなる究極の物質に内在する自己形成力を持った知性であると考えるしかありません(訳注:平たく言えば万物の素(もと)である無数の神の光の一粒一粒に神の知性と創造の力が宿っているということです)。

この原初的な物質が、それ自体に内在する知性によって自己形成されると考えなければならないことは、知性が物質と対置される精神の本質であるという事実から明らかです。もし原初の物質を精神とは別のものであると考えるならば(それは精神でも物質でもないものということになり、したがって)、精神でも物質でもなく、しかも、この両方を生み出すことのできる別の力(内在する知性による自己形成力に替わる力)を仮定しなければならなくなります。しかし、これは、単にこれまでの自己進化の力という考えを一歩後退させ、より高いレベルの何かによってより低いレベルの未分化な(個別的存在になる前の普遍的な)精神が生み出されることを主張しているだけで、まったく根拠のない仮定であり、未分化な精神について私たちが形成し得るあらゆる考え(普遍的な精神とは、万物の素であり、自己形成力を内包する知性であり、自己進化の力であるという考え)と矛盾しています。いくら原点を遡ったとしても、(その原点(第一原因)に到達した)その時点で精神はそれ自体に原初的な物質を含んでいるという結論を回避することはできません。一般的な表現を用いれば、その精神が無(個別化する前の未分化の状態)からすべてのものを創り出したのです。かくして、(「精神が無からすべてのものを創り出した」ということから)万物の生成には、「精神」と「無」という2つの要素があることがわかります。そして、「精神」に「無」を加えても、残るのは「精神」だけです。X+0=Xです。これらの考察から、あらゆる形態の物質の究極の素は精神であり、したがって、自然界のあらゆるものに普遍的な知性が内在していることがわかります。しかし、この隠れた知性は自己認識できる個に対して物理的に適応している分を除けば、特定の形式を取ることはありません。それは、形をとる前の原物質のなかに潜んでいます。この原初的な物質は精神科学的な哲学的思考から導かれるもので、私たちはそれを物理学の哲学的推論である原子よりも無限に微細なものとして思い描くことしかできません。しかし、より分かり易い表現を求めて、私たちは物事の本質に内在するこの原初的な知性を「原子の知性」と呼ぶことができるかもしれません。

この用語には異論があるかもしれませんが、精神の知性のこのモードを、反対側の極、つまり個の知性のモードと区別しようとする現在の目的には役立ちます。この違いには細心の注意が必要です。なぜなら、精神的な治療のようなもので病気を治す時、思考力が物質的な面で結果を出すことができるのは、個の知性に対する原子の知性の反応によるものだからです。原子の知性には応答性があります。最初の始まりから現在の人間の段階までの進化の過程をもたらした宇宙全体の働きは、進歩の各段階にあるものが自分自身と環境との間の調整を要求したことに対する原子の知性の継続的な知的応答にほかなりません。つまり、万物に普遍的な知性が存在すると認識した以上、万物の根底に潜んでいて、求められればすぐに行動に移る原子の知性の応答性を認識しなければならないのです。すべての精神的な治療は、低次(患者)の精神が高次(施術者)の精神に反応することにかかっています。ここに精神科学者とそうでない者の違いが生じます。前者はこの反応性を知っていてそれを利用し、後者は知らないので利用することができないということです。

第3章「精神(神)の単一性」はこちら

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