「意志」は非常に重要なものであり、受講者の皆さんは精神の構成要素における「意志」の位置づけについて、いかなる誤りにも気をつけなければなりません。多くの書き手や教師が、意志の力がまるで創造的な能力であるかのように主張しています。強烈な意志の力が一定の目に見える結果をもたらすことは間違いありませんが、他の強制的手段と同様に、それは自然な成長を永続的にもたらすものではありません(訳注:「火事場の馬鹿力」がその一例です)。単なる意志の強さによって作り出された外観、形態、状態は、その強制力が持続している間は共に存続していますが、その強制力が失われると、すぐにそれぞれの本来の居場所に戻っていきます。強制的に作られたものは、それ自体に生命力の萌芽があったわけではありませんので、それを支えていた外部のエネルギーがなくなるとすぐに消滅してしまいます。このような誤りは、創造力を意志の力に帰すことにあります。というよりも、創造力をそもそも私たち人間に帰すことにあると言うべきかもしれません。
真実は、人間は何も生み出すことはないのです。人間の役割は、創造することではなく、すでに存在するものを組み合わせることであり、私たちが私たちの創造物と呼ぶものは、精神的なものであれ有形のものであれ、すでに存在するものの新しい組み合わせなのです。このことは、物理学の分野で十分に証明されています。物理学者はエネルギーを創り出すなどとは言わず、あるエネルギーを別のエネルギーに変換するだけと言っています。(訳注:原子力発電がその一例です。人間は原子の持つエネルギーを電力として取り出すことはできても、原子そのものが内包しているエネルギーを創り出すことはできません。)このことを普遍的な原則として理解すれば、人間は、物質的な面だけでなく、精神的な面でも、エネルギーを生み出すことはなく、ある様式ですでに存在しているエネルギーが別の様式で発現できるような条件を提供しているにすぎないことがわかります。したがって、人間にとっての創造力と呼ばれるものは、期待するという受容的な態度によるものであり、いわば、可塑的でまだ未分化な物質が流れ込み、望みの形になるための鋳型を創るようなものであるといえます。そして、意志とは、私たちを機械に例えると、動力旋盤において切削刃物を固定する治具と同じような役割を果たすものなのです。それは創造的な力ではなく、創造的な力が私たちの望みどおりの仕事をなすようにするための精神的な働きの一つなのです。言葉の意味を最大限に広げて、想像力が創造的な機能であると言うことができるならば、私たちは意志とは想像力の中心となるものと言うことができます。意志とは、想像力を正しい方向に集中させつづけるものなのです。
私たちが目指すのは、精神力を無目的にあちらこちらに振り向けるのではなく、意識的にコントロールすることであり、そのためには、外部の結果を生み出すための心の要素の相互関係を理解する必要があります。最初に、一連の因果関係が、願望を生み出す何らかの感情から始まります。次に、この願望を外に現すか否かの判断がなされ、判断によって願望が是とされると、意志が前面に出てきて、必要な霊的原型を形成するよう想像力に指示します。このようにして特定の対象に集中した想像力が霊的な核を作り、それが中心となって引き寄せの力が働き始め、それが成長の法則によって具体的な結果が五感で認識できるようになるまで続くのです。
そして、意志の仕事は、自分が望む仕事を実際に行う際の心の姿勢を保持することです。この姿勢は、次の三つに一般化することができます。①何かに作用することを望むか、②何かに作用されることを望むか、あるいは③中立の位置を保つか、言い換えれば、何か特定の対象に対して①力を投じることを望むか、②力を受け取ることを望むか、あるいは③何もしないことを保つかの三つです。さて、判断力は、①意識的に働きかける姿勢、②意識的に受け入れる姿勢、③意識的に中立的立場を取る姿勢のいずれかを決定します。そして、意志の役割とは、ただ単に決定された姿勢を維持することにあります。もし、私たちが決定された精神的姿勢を意志を用いて維持するならば、私たちはその姿勢にふさわしい結果を私たちにもたらす「引き寄せの法則」を確実に当てにすることができます。これは、ある人たちとっては意志力を意味するところの、精神力を何かに無理やり振り向けることとは大いに異なります。正しい意志力は神経系に負担をかけないため、疲労感はありません。意志力は、低次の精神領域から高次の精神領域に移されると、望ましい結果が必ず現象化するという確信となり、それに反するあらゆる邪魔立てをものともせずに、その精神的な姿勢を維持しようとする冷静で穏やかな決意になります。
意志を鍛え、その意志を低次の精神領域から高次の精神領域に移すことは、精神科学の最初の目的の一つです。人間の精神活動は意志に集約されます。自分の意志で行うことは自分自身の行為であり、不承不承行うことは、自分自身の行為ではなく、強制的な外部の力による行為です。しかし、精神面では、私たちが受け入れない限り、他のいかなる存在も私たちの意志を支配することはできないことを認識しなければなりません。ここに、精神科学を合理的に用いて、意思を強化し、その意志を覚醒したる理性の支配下に置くことの効用があります。
意志が固まれば、あなたはもはや、意志の力をあれこれ詮索する必要はありません。よく鍛錬された意志は、確実に願望実現の第一原因を起動させる途方もない精神的な力であることを認識したうえで、シンプルに第一原因が作用する潜在意識の領域で意思を操作する意図でもって自分の願望を明確に表現すればよいのです。そして、こうして表現された願望は、やがて具体的な事実として外に形を取って現れることを知っていればよいのです。あなたが今、真剣に取り組まなければならないことは、自分が、選んだ結果を外に現す力を持っているかどうかを気にすることではなく、どのような結果を出すべきかを賢く選択することを学ぶことです。というのも、原因と結果の法則を昧(くら)ますことはできないからです。私たちは、いかなる原因も、それがすでに内包している結果を必ず生み出すものであり、その結果が次には原因となって、一連の因果の流れができ、その連鎖は、それを生み出した第一原因とは反対の性質を持つ思考によって断ち切られない限り、継続していくことを理解しなければなりません。かくして、私たちの自己実現能力は、私たちが精神科学をマスターすればするほど絶えず拡大していくことになります。また、私たちの意図が善いものであれば、私たちは自分の原因行為の結果をなるべく詳しく知りたいと思うことでしょう。
ところで、私たちはあまり先々までは見通すことができませんが、原因と条件についてこれまで述べてきたことから得られる大事な一般原則が一つあります。それは原因と条件の一連の流れは、つねに最初の原因と同じ性質を持っているということです。その性質が否定的なものであれば、つまり優しさ、明るさ、強さ、美しさ、その他の善を外に出したいという願望のないものであれば、その否定的な性質のすべてが外に現れてきます。しかし、元の動機がそれとは反対の肯定的な性質であれば、愛、喜び、強さ、美しさなどが正確に現象化することになります。したがって、思考力を働かせて新たな条件を生み出そうとする前に、それがどのような結果をもたらす可能性があるかを慎重に検討する必要があります。これは、私たちが将来のより大きな利益ために目先の満足を先送りすることを可能にする自制心を身に付けるための意志力鍛錬の場ともなります。
このように考えていくと、必然的に集中力というテーマに行き着きます。先ほど、正しく制御された精神作用はすべて、心を三つの態度のうちの一つに保つことにあると指摘しましたが、実は、四つ目の精神態度があります。それは、自分の意志を明確な目的に向けないままに、精神機能を働かせることです。この「目的」という言葉に、私たちはすべての注意を向けなければいけません。私たちはエネルギーを無目的に散逸させることなく、それを知的に集中させなければなりません。この言葉は、「中心に集まる」という意味であり、あらゆるものの中心とは、すべての力が均等にバランスしている点ということです。したがって、集中するということは、まず心を平静にして、思考を明確に認識された目的に向け、次にその思考が反対方向にそれないように注意深く見守ることを意味します。
私たちが扱っているのは、まだどのような活動形態にも分化していない潜在的なエネルギー(神の光)であり、私たちはそれを心の働きによって自分の意図するどのような活動形態にも分化させることができるということを、つねに念頭に置いておかなければなりません。このエネルギーの流れの方向性を私たちは心の姿勢によって決定することができるという事実を確信することによって、私たちは徐々に自分の願望を外へ現すことができるようになります。
適切な集中とは、神経系統を疲弊させたり、反対の力を意識し過ぎて、私たちが恐れる反対の状況を作り出し、目的を失わせたりするようなものではありません。集中とは、原因結果の法則は確実に作用するものゆえ、私たちの願望が達成されることは確実であるという知識に基づいて、私たちの願望達成を邪魔するような思いをすべて遮断することなのです。
もう一つの大きな原則は、集中とは、それまで未分化であったエネルギーに与える性質を決定するためのものであり、エネルギーが現象化する具体的な状況を調整するためのものではないということです。そのような状況の調整は神の創造的エネルギーそのものの仕事であり、創造的なエネルギーは、私たちが余計な干渉さえしなければ、ごく自然に自らの表現形式を構築していくものなので、無用な心配はしないことです。私たちが本当に求めるものは、健康や富などの拡大であり、それが得られるのであれば、それが自分の当てにしていた経路によるものであろうと、これまでその存在に気付いていなかった別の経路によるものであろうと、関係ありません。特定の目的のために創造的エネルギーを集中させることに、私たちは心を向けるべきであり、目的の達成に必要な細部の状況に目を向けるべきではありません。
この二つ(思いが目的から逸れないようにすることと目的の達成手段には目を向けないこと)が集中力を高めるうえでの鉄則です。しかし、集中力を切らさないために、休息してはならないと考えてはいけません。逆に、休息の間に行動するための力が蓄えられます。休息というのは目的がないということではないのです。純粋な精神として、主観的な心(潜在意識)は決して休むことはありませんが、肉体と結びついている客観的な心(表面意識)には休息が必要です。また、意識的な思考の働きを完全に停止することで、最大限の休息が得られる可能性があるのは間違いありませんが、より一般的で望ましい休息方法は、思考の方向を変えて、何かに思考を集中する代わりに、自分が何者であるかを静かに考えることです。
このような思考の方向性は、もちろん、最も深い哲学的な思索に発展するかもしれませんが、だからと言って、私たちはつねに外に現れる結果を生み出すために意識的に考えつづけたり、あるいは、何らかの形而上学的な問題に取り組んだりしなければならないということではありません。そうしなくても、私たちは、自分自身を普遍的な生命体の一部として認識するだけで、静かな集中を得ることができます。この神の子であるという認識は、意識することによって維持されるものではありますが、これこそ休息の本質です。この観点から見ると、すべてが神の生命であり、すべてが善なるものであり、自然は目に見える表面的なものから最も奥深い内部に至るまで生命と善の広大な宝庫であり、そのすべてが私たちの利用のために供されていることが分かります。
私たちは、自然のすべての財宝への鍵を持っています。そして、その詳細を研究しなくとも、私たちは存在の法則の知識を応用することができ、そうすれば、私たちが自然全体と一体であることが分かります。これは偉大な秘密であり、一度これを理解したならば、その全体、またはどの一部の所有をも楽しむことができます。なぜなら、認識することによって、私たちはそれを自分のものにしたからであり、これからもそうすることができるからです。
ある時、ある場所で私たちに最も訴えかけてくるものがあれば、それはその瞬間に私たちと一体となっている普遍的精神(神)の生命です。このことを理解すれば、私たちはそこから生命エネルギーの流れを引き入れることができます。その生命エネルギーは私たちの生きているという感覚そのものを喜びに変え、あらゆる有害な暗示をはじき返すオーラを私たちから発してくれます。私たちは、自然と共感できた至極の瞬間を他人に示すための文学的、芸術的、科学的な才能を持っていないかもしれません。しかし、この共感的な自然エネルギーの流入の喜びは、自然との一体感を実現したその人のより幸せな表情やより優しい身なりとして現れてきます。自然との一体感を実現した人は(これが最大のポイントなのですが)自分がつねに全生命の銀河の中心であることを認識し、かくして無限の中心に座っている自分を見つめます。それは何もない無限の空間ではなく、本質が善に他ならないあらゆる命ある存在が光り輝いている無限の空間です。これは、利己的な自己中心性とは真逆のものであり、すべての人から受け取り、すべての人へ与えていくことを実感できる中心なのです。この循環の原理を離れては、真の生命は存在しません。もし私たちが無限空間の中心的な位置にいることを、他から一方的に受け取るためのチャンスとしてのみ考えるならば、私たちは、作用と反作用という生命の原理の本質を見落としたことになり、これまでの学習の成果をすべて失うことになります。本やゲームを楽しむためにはその精神(真髄)に入らなければならないように、生命を自分の中に引き入れようと思うのであれば、自分自身が生命の精神に立ち入らなければなりません。
中心であるというだけでは何の作用も起こせません。生命活動を維持するためには、周りに向かって絶え間なく流れ出し、再び中心に戻ってこなければなりません。そうでなければ、貧血か鬱血で崩壊してしまいます。しかし、生命活動の相互性を理解し、流出はただ単に出す行為なのではなく、他の存在の中に見られる善に身を任せる心の習慣にあることを理解すれば、この習慣の修得が、与える側であれ受け取る側であれ、普遍的な生命力が私たちの中を流れるための、これまで想像もつかなかったような無数の道を開いてくれることに気づくでしょう。そして、この作用と反作用は、私たち自身の活力を高め、毎日がそれまでのどの日よりも完全に生き生きとしたものになります。これこそが、科学、文学、芸術のあらゆる美を享受し、あるいはそれらの作者の助けを借りることなく、自然の精神と静かに交わることができる休息の姿勢です。これは特定の対象物に向けられてはいないものの、やはり目的性を持っています。私たちは意志力を緩めたわけではなく、単にその方向を変えたにすぎません。したがって、活動においても休息においても、私たちの強さは普遍的精神(神)の単一性と、その普遍的精神(神)の個々の凝集体としての私たち自身を認識することにあることがわかります。