精神科学の講義を始めるにあたり、どのようなテーマから始めるのが最善かを決めるのは、いささか難しい問題です。様々な角度からのアプローチが可能で、それぞれに特徴的な利点がありますが、しかし、慎重に考えた結果、今回の講座の目的には、精神と物質の関係よりふさわしい出発点はないように思えます。私がこの出発点を選んだのは、両者間の違い、あるいはそのように信じられているものが、私たちがよく知っているものであり、誰もがそのように認識していると考えてよいからです。それゆえ私は、この両者間の自然な違いを表現するために、私たちが習慣的に使っている形容詞を使って、生ける精神と死せる物質と表現することにします。これらの形容詞は、精神と物質の違いについての私たちの現在の印象を十分正確に表しており、外見的な観点からのみ考えれば、この印象が正しいことは間違いありません。人類の総意として、自分の感覚を信じることは正しいことといえます。健全な肉体の感覚が健全な心に伝える情報には何の誤りもありません。しかし、この情報の意味を判断するときに誤りが入り込むことがあります。
私たちは、ともすれば外観や言葉の持つ限定的な意味だけで判断してしまいがちですが、言葉の本当の意味を探り、外観を生み出している要因を分析し始めると、それまでの考えがだんだんと崩れていき、最後には今まで認識していた世界とは全く異なる世界に生きているという事実に気づかされます。今までの限定された思考パターンがいつの間にか抜け落ち、すべてが自由で生命に満ちた新しい秩序の世界へと踏み出していることに気づかされます。これは、いかなる先入観にもとらわれず、真実が何であるかを発見しようとする持続的な決意、つまり、誰かにやってもらうのではなく、自分自身で正直に考えようとする決意から生まれる、賢明な知性の働きによるものです。それでは、私たちが精神の属性とした生と、物質の属性とした死とは何を意味するのかを問うことから始めましょう。
最初に、生とは動く力があることであり、死とはそれがないことであると言いたくなるかもしれませんが、最新の科学の研究成果を少し調べれば、この区別が妥当でないことがすぐにわかります。私たちが「無機物」と呼んでいるものを構成している原子で、動きのないものはないということは、今や物理学上の確立された事実の一つです。私の目の前にあるテーブルの上には、固い鉄の塊が置かれていますが、最新の科学の知見によれば、一見動きがまったくないように見えるこの塊の原子は、非常に強いエネルギーで振動しており、絶え間なくあちこちに突進したり、互いにぶつかっては跳ね返ったり、太陽系のミニチュア版のようにぐるぐる回ったりしており、その複雑な活動は想像を絶するほどの速さです。物体は、物体としてテーブルの上で動きがないかもしれませんが、それは運動の要素がないわけではなく、特急列車の速度とは比べ物にならないほどの速さで粒子を動かしている、決して疲れることのないエネルギーの住処(すみか)なのです。ですから、私たちが直感的に精神と物質を区別するその根底にあるのは、単なる動きの有無ではなく、それよりももっと深い何かです。「生」を「死」と比較することによって、問題が解決することは決してありません。その理由は、後で明らかになりますが、真の解決の鍵は、「生」の度合いを比較することにあります。もちろん、生きていることの質の度合いという概念は認められないという見解もあるかも知れませんが、完全に度合の問題であるという見解もあり得ます。植物が生きているという事実には何の疑問もありません。しかし、それは動物が生きていることとはまったく異なります。また、ペットとして金魚よりもフォックステリアを好まない少年はいません。あるいは、少年自身が犬よりも一歩進んでいると言えるのはなぜでしょうか。植物も、魚も、犬も、少年も、みんな同じように生きています。しかし、その生きていることの質には、誰もが疑わないような違いがあり、その違いは、知性の度合いであると誰もが迷わず言うことでしょう。どのように考えても、個々の生命の「生きていること」は、最終的にはその知性によって測られることがわかります。動物を植物よりも上にし、人間を動物よりも上にし、知的な人間を野蛮人よりも上にするものは、より高い知性です。知性の向上は、それに見合ったより高次の活動様式を呼び寄せます。知性が高ければ高いほど、活動様式は完全にその制御下にあり、知性のレベルが下がるにつれて、知性の制御に従わない本能的な活動が増えていきます。この知性のスケールは、最も高い人間の自己認識のレベルから、私たちが「物」と呼ぶ、形はあるものの自己認識の全くないレベルまで変化します。
かくして、生命の発現レベルは、知性、つまり思考の力によることがわかります。したがって、精神の特徴的な性質は「思考」であり、その反対に、物質の特徴的な性質は「形」であると言うことができます。形のない物質は考えられません。たとえ物理的な目には見えなくても、何らかの形があるはずです。というのは、物質が物質であるためには、空間を占有しなければならず、特定の空間を占有するためには、必然的にそれに応じた形を必要とするからです。このような理由から、精神の特徴的な性質は「思考」であり、物質の特徴的な性質は「形」であるということを基本的な命題とすることができます。これは、重要な結果をもたらす根本的な違いであり、受講者の皆さんは注意深く書き留めなければなりません。
「形」は、空間的な広がりを持つと同時に、一定の境界内に制限されます。「思考」はどちらにも当てはまりません。それゆえ、生命が何らかの「形」で存在していると考えるとき、私たちはそれを空間的な広がりの観念と結びつけています。つまり、象はネズミよりもはるかに多くの細胞で構成されていると認識します。しかし、生命を「生きている」存在として考えるときは、それを「広がり」という観念と結びつけることはなく、大きさの違いを気にすることなく、ネズミも象と同じように生きているものと認識します。
この違いの重要な点は、もし私たちがどんなものでも空間的な広がりという要素をまったく持たないものとして考えることができるならば、それはどこにでも、すべての場所に、つまり空間のすべての点に同時に存在し得るということです。また科学的な時間の定義は、物体が空間のある地点から別の地点に移動する際に要する期間ですから、この定義により、空間がないところには時間もあり得ません。それゆえ、あるものを空間の要素がまったくないものとして認識する時は、同時に時間の要素もまったくないものとして認識していることになります。このことから、具体的な形ではなく純粋な思考としての観念は、時間と空間の要素から完全に独立していることがわかります。すなわち、もしあるものを純粋な思考として観念すれば、そのものは今ここに実際に存在しているということです。このように考えると、純粋な思考の世界においては、時間的にも空間的にも私たちから離れて存在するものは何もありません。そもそも観念そのものがないか、あるいは今現在、実体あるものとして存在しているかのどちらかです。時間の流れがないのですから、今現在から離れて未来に存在するということもあり得ませんし、同様に、空間がないのですから、何かが私たちから離れて存在することもあり得ません。
時間と空間の要素がなくなると、私たちの物に対する概念は、必然的に普遍的な「ここ」に「永遠に」存在するものとなります。これは非常に抽象的な概念ですが、後述するように、精神科学を実践する上で非常に重要なことなので、受講者の皆さんにはしっかりと理解していただきたいと思います。
これと反対の概念は、物は時間と空間の条件によって自己を表現し、他の物との間に、大きさ、距離、方向、あるいは時間的な順序などで、さまざまな関係性を構築するというものです。これら二つの概念は、それぞれ、抽象的対具体的、条件付けなし対条件付けあり、絶対的対相対的の対比をなすものです。両者は相容れないという意味で対立しているのではなく、それぞれが補完関係にあり、そこに真実性があります。極端な観念論者の誤りは、相対を抜きにして絶対を認識しようとする点にあり、極端な唯物論者の誤りは、絶対を抜きにして相対を認識しようとする点にあります。一方の誤りは外側なしに内側を認識しようとしている点にあり、他方の誤りは内側なしに外側を認識しようとしている点にあります。外側、内側のどちらも実体を形成するためには必要なものなのです。