アルファとオメガ、始まりと終わり。これは何を意味するのでしょうか。それは、最初の原因から最終的な完成された結果までの因果の全体を意味します。私たちは、これを宇宙の創造から女性の衣服の創造まで、あらゆるスケールで見ることができます。すべてのものは、アイデア、つまり思考に起源を持ち、その思考が物となって現れることで完成します。多くの中間段階が必要ですが、ひと連なりのアルファとオメガは、思考と物です。これは、本質においてその物が思考の中にすでに存在していたことを示しています。オメガはアルファの中にすでに潜在しています。それはちょうどピタゴラス体系において、すべての数は1から始まり、分解すれば1に帰結すると言われているのと同じです。【訳注:例えば、5は1から始まり、1+1+1+1+1であることから分解すれば1に帰結します。】
さて、私たちがしっかりと把握しなければならないことは、思考の中に物がすでに存在しているというこの一般原則であり、建築家の設計図の中の家が真実であることがわかれば、宇宙の創造者の偉大な構想においてもそれが真実であることが分かります。これを理解する時、私たちはあらゆる所で機能している一般原則を認識したことになります。これが一般原則の意味です。それはあらゆる種類のテーマに適用されます。そして、一般原則を学ぶことは、私たちが対処しなければならないあらゆるものに一般原則を特別に適用するのに役立ちます。さて、今、私たちが何よりも対処しなければならないのは自分自身であり、人間のアルファとオメガを考えることです。聖ヨハネの見た幻影では、「私はアルファでありオメガであり、最初であり最後である」という言葉の話し手が、「人の子に似ている」と記述されています。つまり、幻影の中の姿がいかに超人的であっても、本質的には人間であり、したがって、人間のレベルにおける普遍的原理の存在を私たちに示唆しています。しかし、黙示録的な幻影の姿は、私たちが通常知っている人間の姿ではありません。それは、アルファの内に密やかに存在するオメガの姿であり、預言者の目に客観的な形を取って現れた、神の心の中に存在する人類の理想像です。それゆえに、神の栄光のすべての威厳の中にその理想のアルファとオメガが提示されたのです。
しかし、その物が思考の中にすでに存在しているという真実を理解するなら、この超人的なオメガは、私たち一人一人の神の理想像の中にすでに存在しているに違いないことがわかりませんか。絶対的な時間の平面上にない場合、この栄光に満ちた人類は神の心の内に現に在る事実であるということになりませんか。もしそうであれば、この事実はすべての人間に関して永遠の真実です。しかし、物が思考の中に存在することが真実であるならば、思考が物の中に形を見出すことも同様に真実です。物は時間と空間の相対的な条件の下で存在するものなので、それらは必然的に成長の法則に従います。その結果、思考における物の存在は最初から完全ではあるものの、物の中での思考の表現は段階的に発展するものとなります。これは私たちの学びにおいて決して見失ってはならない点です。私たちは物の中に思考の完全性をまだ見てはいないので、思考の中にある物の完全性を見失ってはなりません。したがって、私たちが現在知っている人間は、決して進化の究極に達しているわけではないことを覚えておく必要があります。私たちはまだ作りかけに過ぎませんが、しかし、私たちは今、創造的精神(神)との意識的な協力によって進化のプロセスを促進することができる地点に到達しています。この協力作業への私たちの参画は、人間の聖なる理想像を認識することから始まり、それによって私たちが導かれるべき型を見つけることにあります。というのも、この型に従って創造される人間は私たち自身であるため、聖なる理想像がどのような過程を経て具体的な実体あるものに変化するとしても、その過程が働く場所は私たちの中にあるはずだからです。言い換えれば、神の創造的な作用は、私たち自身の心性の法則を通じて行われます。思考が物の中で形を取り得る前に、物が思考の中で形成さなければならないというのが真の公理であるなら、聖なる理想像は、それが私たちの思考の中でまず形成されるのに比例して、私たちの客観的な人生の中でのみ外在化され得ることは明らかです。それは、私たちが神の心の中にあるその存在を理解する範囲内でのみ、私たちの思考の中で形成されます。個人の心と普遍的な心との関係の性質上、それは正確に反映されます。私たちの心の鏡が聖なる理想像のイメージをぼんやりと、あるいはクッキリと反射するのに応じて、それは私たちの外的人生に弱々しく、あるいは力強く再現されます。
これが事の背景にあるものなのに、なぜ私たちは自分自身の聖なる理想像についての概念を制限する必要があるのでしょうか。なぜ「私はあまりにもな見劣りのする創造物なので、それほど輝かしいイメージを反映することはできません」とか、あるいは「神はそのような無限の理想像を人間の中で再現することを決して意図していなかった」と言う必要があるのでしょうか。このようなことを言うことで、私たちは創造的プロセスの法則全体に対する無知を曝すことになります。私たちは、完成のオメガが概念のアルファの中にすでに存在しているという事実、そして、もし概念のアルファが完成のオメガの中で表現されなければ、それは偽りの幻想に過ぎないという事実に目を閉じているのです。創造的プロセスとは、私たちが、神とは自分にとって相対的にこういうものであると実感したものになることです。したがって、もし私たちが、神を、完成された人間を構成することのできる無限の可能性を秘めたものと理解するならば、この概念は、創造的プロセスの法則によって、私たちの心の中にそれに応じたイメージを徐々に築き上げ、それが次に私たちの外部条件として現れてきます。
これが、心の法則による創造的プロセスの本質であり、聖パウロが、(ガラテア人への手紙4章19で)「キリストが私たちの中で形作られる」と述べていることの意味であり、また、別の場所(コロサイの信徒への手紙3章10)で、「私たちを創造した神の姿に倣って知識を新たにすること」を呼びかけていることの意味です。これは原因と結果の完全な論理的順序であり、私たちが必要としているのは、この順序の法則をより明確に理解し、それを知的に使用することです。だからこそ聖パウロは、「知識において新たにされている」と言っているのです。それは新しい知識であり、私たちがこれまで理解していなかった原理の知識です。さて、過去の経験において私たちが理解できなかった事実は、人間の心が創造的精神(神)の働きの新たな出発点を形成するということです。そして、この事実をますます明確に理解すればするほど、私たちは古い制限にますます縛られることのない新しい人生の秩序に入っていくことに気づくことでしょう。これは、私たちが特定の単なる言葉上の教義を守ることに対して恣意的に与えられる報酬ではなく、私たちが、私たち自身の存在の最高法則を理解することの自然な結果です。それはそれ自体として化学反応の法則と同じくらい純粋に科学的です。ただし、それは二次的原因の相互作用ではなく、神の自己起源(第一原因)の作用と同じものです。それゆえ、物理科学では存在しない新しい力、つまり「フィーリング」の力を考慮に入れる必要があります。思考は形を生み出しますが、思考に活力を与えるのはフィーリングです。フィーリングを伴わない思考は、優れた工学的な仕事のように建設的なものであるかもしれませんが、芸術家や音楽家の仕事のように創造的なものになることは決してありません。そして、新たな因果関係を自らの内に生み出すのは、既存のすべての形態を見ればわかるとおり、無からの創造であり、したがってフィーリングを表現する思考です。創造的思考を単なる分析的思考と区別し、異なるカテゴリーに分類するのは、この思考とフィーリングの切り離せない結び付きです。もし私たちが創造の働きをつづけるための新たな出発点を与えるとしたら、それは起源の神のフィーリングをその思考の不可欠な部分として取り入れることによってでなければなりません。それが、私が最初の講義で話した精神の心の内に入るということです。
さて、神の心の中のイメージは必然的に一般的でなければなりません。その理由は、生命の原理はまさにその性質上、多産的、つまり多様性の傾向にあるはずであり、したがって基の思考イメージは人種全体の基礎となるものであり、特定の個に排他的なものであってはないからです。したがって、神の心の中のイメージは、まさにプラトンが原型的なアイデアで意味したもの(理念・イデア)であり、種の完全な発展の、まさに本質的で絶対的な型でなければなりません。これが、思考の中に存在する完全な物なのです。したがって、創造的活動の中心として、新しい法則の提唱者として、それらを通じて新しい条件を提唱する者としての私たちの進化は、神の心の中にある精神的完全性の原型を、思考としてフィーリングとして実感することにかかっているのです。私たちがこれらすべてを神の心の中に見出すとき、私たちは無限で栄光に満ちた人格に出会うのではないでしょうか。私たちが人格によって理解できるすべてのものには、外見的な形を除いて、何も欠けているものはありません。そして、テレパシーの本質は、物理的な存在を不要にすることであるため、私たちは神的であると同時に人間的である人格と内面的に交わる立場にあることに気づきます。これは聖ヨハネが黙示録的な幻視の中で見た精霊の人格であり、まさにその条件によって、それは人類のアルファでありオメガです。
しかし、私が述べたように、それ自体(神の中の完全な原型)はまったく一般的なものであり、それは個人との純粋に個別的な関係によってのみ活性化され、かつ特殊なものになります。しかし、法則に拠らなければ何も起こり得ないこと、したがってこの特殊な関係は自然発生的なものではなく、一般的法則が特殊な条件下で適用されることによって生じるものであることを再認識する必要があります。法則が一般的であるとは、法則それ自体が特殊な条件を提供することはないということなので、法則を特殊化するための条件は個人によって提供されなければならないということになります。ここで、思考とフィーリングから創造的な動きが生じるという認識が、実際の役に立つのです。彼は、自分自身の心と精神と相互作用する神の心と精神が存在すること、自分が扱っているのは薄っぺらな抽象概念でもなく、単なる数学的手順でもなく、自分自身と同じくらい暖かく生き生きとした興味に満ちた生命で脈打っているもの、いやそれ以上のものであることを理解します。というのも、それは彼自身のすべてを超えたものであるからです。そして、彼の認識はこれよりもさらに進みます。なぜなら、この特殊化は個人を通してのみ起こり得るため、論理的には、彼がこのように特殊化した生命は彼自身の生命になるからです。創造的精神(神)は、個人を離れて自己を認識することはありません。しかし、個人を通したこの自己認識は、創造的精神の固有の性質を決して変えることはできません。それゆえ、個人が創造的精神と自分との同一性を認識する限りにおいて、個人は自分自身をその導きの下に置き、そうして「精神(神)に導かれる者 」の一人となるのです。こうして彼は、神の理想のアルファとオメガが自分自身の中に再現されていることに気づき始めます。現時点ではその程度は非常に小さなものですが、それは、まだ私たちが構想することはできない無限の拡大への永遠の成長の原理を含んでいます。 聖ヨハネは、この立場全体を印象的な言葉で要約しています。「愛されし者たちよ、今、私たちは神の子です。そして、私たちがどのような者になるのかはまだ明らかではありません。しかし、神が現れるとき(すなわち、私たちに明らかになるとき)、私たちは神のようになることを知っています。なぜなら(すなわち、その全理由は)、私たちが神をありのままに見ることになるからです。」(ヨハネ第一 iii.2)