先行する 2 回の講義で、私は、すべての起源の精神自体が何であるか、および個人とそれとの関係について、いくつかの概念に到達するよう努めてきました。私たちがこれらのことについて何らかの概念を形成できれば、それはすべての自然に適用できる普遍的な原則であり、人間のレベルではすべての人間に適用できることがわかります。これは一般的な法則であり、これを認識することが、さらなる進歩のための不可欠な予備知識となります。なぜなら、進歩とは、物事に固有の法則(原理)を無視することではなく(それは不可能なことです)、その原理をより有用に作用させることができる条件を用いて特殊化することで成し遂げられるものだからです。したがって、これら 2 つの極、普遍的なもの(神)と個別的なもの(人間)、そして両者の相互関係についての一般的な知識を得たところで、次に、特殊化のプロセスを考えてみましょう。自然法則の特殊化とはどういうことなのでしょうか。それは、法則または原理が、自然でシンプルな一般的な条件下では生じさせることのできない結果を得られるようにすることです。この適切な条件の選択は知性の働きによるものであり、それは新しい結果を生み出すために意識的に物事を新しい秩序で捉えなおすプロセスです。原理は決して新しいものではありません。原理は永遠で普遍的なものだからです。しかし、同じ原理が新しい条件下で働くときに新しい結果を生み出すという知識は、無限の可能性を広げる鍵です。そこで、私たちが考察しなければならないのは、普遍的な原理が過去の経験を超える新しい結果をもたらすようにするための新しい特定条件を考え出す知性の働きです。このプロセスは、新しい要素を導入することではなく、つねに存在する要素の新しい組み合わせを作ることの中にあります。ちょうど、私たちの祖先が馬なしで移動できる乗り物の概念を持っていなかったものの、このような乗り物が今日では、つねに存在していた要素【訳注:例えば蒸気や石油や車輪、荷台など】の適切な組み合わせによって、私たちの街中でありふれたものになっているようにです。では、知性の力は、個別的なるものと普遍的なるものとの関係の一般法則にどのように影響を与え、それを特殊化して、これまで得られたものよりも大きな結果を生み出すことができるのでしょうか。
今日の文明化された世界をアルフレッド大王やカール大帝の時代よりも進歩させた科学の実践的成果はすべて、ある統一された方法によって得られたものであり、それは非常に単純なものです。その方法とは、既存の組み合わせにおいて、何が肯定的な要素であるのかをつねに探求し、その特定の組み合わせにおいて、なぜそれがある限界を超えて作用しないのか、何がその物を、そこまでの成功に導き、何がそれ以上の発展を阻むのかを自問することです。そして、肯定的要因の性質を注意深く熟考すれば、肯定的要因がより完全に表現されるようにするためにはどのような条件を用意すればよいかがわかります。これは科学的な方法であり、物質的なものに関しては正しいことが証明されていますし、精神的なものに関しても同じように信頼できない理由はありません。
これを私たちの方法として、被創造物全体、そして被創造物に含まれる私たち自身の中にある肯定的な要素は何かを問うと、第一回目の講義でわかったように、それは精神(Spirit)です。原物質(万物の素であるエーテルあるいは神の光)を型に凝縮し、その型に、惑星の単なる機械的運動から人間の意志的運動までのさまざまな運動様式を付与する、目に見えないあの力です。そして、そうである以上、第一の肯定的要素は、普遍的精神のフィーリングと思考しかあり得ません(『エディンバラ講義』参照)。【訳注:まず肯定すべきは、万物を生み出した神のフィーリングと思考ということです。】さて、精神科学の仮説によれば、普遍的精神(神)は生命の純粋な本質に違いありませんので、そのフィーリングと思考は、生命性を絶えず増大させながら表現することに向かうはずです。それゆえ、私たちが求めている特殊化は、より完璧にこのフィーリングを実現し、この思考を表現するための中心を与えるという線上になければなりません。
したがって、科学的探究の結果は、精神(神)の種全体に対する一般的な働きを特定の個人への働きに特殊化するために必要な条件とは、創造的精神(神)自体の本質的な働きに反するものではなく、それと調和する新しい思考様式を私たちが持つことであるという結論になります。これは、私たちの古い概念の完全な逆転を意味します。これまで私たちは、形や条件を思考の出発点として、それが精神状態の原因であると推察してきました。今、私たちは、創造プロセスの真の順序はまったく逆であり、思考とフィーリングが原因であり、形や条件が結果であることを学びました。この教えを学んだとき、私たちは創造的プロセスの一般法則を個に特化することが現実的に可能となる基礎原理を把握したといえるのです。
新思考(New Thought)は、特定の宗派の名前ではなく、私たち自身の将来の発展のための本質的な要素であり、その本質は、物事の関係を新秩序(New Order)で見ることにあります。これまで私たちは原因と結果の正しい秩序を逆転させてきました。今、因果の原理の真の性質それ自体(原因によってもたらされた結果と区別される第一原因)を注意深く考察することによって、私たちは真の秩序に立ち戻り、それに従った新しい思考方法を採用することになるのです。
この秩序と思考方法自体は、新しいものではありません。これらは世界の創造よりも古いものです。なぜなら、それらは創造的精神(神)自身のものだからです。そして、時代を超えて、この教えはさまざまな形で受け継がれ、その真意は各時代の少数の人々によってのみ認識されてきました。その光が誰かの心に差し込むと、それはその人にとって新たな光となり、次々と各人にとっての新しい思考になります。そして、誰もがそこにたどり着いたとき、その人は自分が新たな秩序の中にいることに気づきます。彼は、実際には、宇宙の普遍的な秩序に含まれつづけているのですが、彼が以前に思っていたのとは完全に異なる方法で含まれることになります。というのも、新しい視点により、彼は、自分が宇宙活動の結果の一部というよりも、その原因の一部として含まれていることに気付くからです。そして、これを認識したとき、彼は、自分をさらに進化させる方法とは、原因となる力を自分自身の中にますます自由に流れさせることであることがわかり、それを可能とするような思考条件を提供しようと努めるようになります。
そして、肯定的な要素を科学的に探求する中で、彼は、この普遍的な原因となる力が(この力を何と呼んでもよいのですが)手段を目的に適合させる「最高の知性」として現れることに気づきます。それは、地球のメカニズム、肉体的生命を支えるための供給物の生産、そして人種全体の維持に現れています。確かに、研究者はあらゆる場面で個人の失敗に遭遇します。しかし、これに対する彼の答えは、宇宙的な失敗などは存在せず、見かけ上の個人の失敗はそれ自体が宇宙的プロセスの一部であり、個人がそのプロセスの運行原理を認識し、自分の個性の中に宇宙的プロセスが新たな出発点を取ることを可能にする必要条件を提供するようになれば、それに比例して減少していくだろうというものです。さて、これらの条件の一つは、それを知性として認識することです。そして、それは、私たち自身の精神性を通じて働くとき、ちょうど電気が光として現れることを可能にする特別な装置を通過する際にその本質を失うことがないように、決してその本質を変えないことを心に留めておくことです。
これを見ると、私たちの思考は次のようになります。「私の心は、神の働きの中心である。 神の働きとは、つねに拡大し、より完全に表現することにあり、それは、これまでにない何かを生み出す。過去からの秩序だった一連の成長の延長線上にあるものの、過去の経験には含まれない、まったく新しい何かを生み出す。したがって、神はその固有の性質を変えることができないので、私の中でも同じように働くはずである。その結果、私が中心となっている私自身の特別な世界においても、つねに以前のどんな状態よりも先を行く新しい状態を創り出す。」これは、個人と普遍的な心(神)との関係性の認識から導かれる理に適った論拠です。その結果、私たちは神の心に、創造的であるだけでなく、指示的でもある、つまり、創造のためのエネルギーを供給するだけでなく、私たち自身の特定の世界において、エネルギーが物となって現れる際の実際の形態をも決定する働きを見ることになります。もし、原初の精神が形成する力でもあることを認識しなければ、個人と普遍的精神(神)との間の関係性のポイントを見失うことになります。それは自然界全体を形成する力であり、もし私たちがそれを特殊化しようとするならば、私たちの心の内なる新しい出発点から働き出すときのその形成力をも信頼しなければなりません。
しかし、もしそうであるならば、個人はどのような役割を担っているのだろうかという疑問が生じますが、私たちの役割とは、神のエネルギーが働ける具体的な中心を提供することにあります。通常、私たちは生来の個性に従って神のエネルギーを知らずに引き寄せていますが、この引き寄せの法則性を理解し始めると、今度は私たちが意図的に自分が関心を向ける特定の方向性に沿って、神へと抵抗なく引き寄せられるようになります。このようにして、私たちが特定の願望を神に投げ掛けると、神の引き寄せの力が強まり、その力は私たちの願望に応じて私たち自身と私たちの周りの両方で作用し始めます。これが普遍的な神の心と個々の心との相互作用の理論的根拠であり、これは、私たちの願望が、特定の物の獲得に直接向けられるのではなく、私たちの心の中において、まず神の特定のイメージとして形成されるべきであることを示しています。そして、これはその本質において創造的であるがゆえに、それに応じた物や状況が必ず外に現れることになります。そして、これらの外的事実が私たちの客観的な生活の輪の中に現れるとき、私たちは今度は客観的な立場からそれらに取り組まなければなりません。ここで(神と自分との関係性を知った人であっても)多くの人が外在化のレベルを下げてしまいがちです。彼らは主観的または創造的なプロセスを理解してはいますが、客観的または建設的なプロセスがそれにつづく必要があることまでは理解していません。したがって、彼らは非現実的な夢想家であり、彼らが仕事の完成段階に達することは決してありません。創造的プロセスは、作業のための材料と条件を私たちの手にもたらしてくれますが、その後は、私たちが勤勉さと常識でもってそれらを利用しなければならないのです。神は食材を提供してくれますが、ディナーまでは作ってくれません。
この部分は個人が担う役割であり、このようにして個人は、ただひたすらに神のエネルギーに依存するのでもなく、また神のエネルギーに理不尽に支配されのでもない、神のエネルギーのよき分配センターとなるのです。人は導きを求めるがゆえに導きを受け取ります。そして彼は認識することのできる法則に従って、求めることと受け取ることの両方を行いますので、それらを特定の目的に適用するうえで、電気の一般的な法則に従う技術者よりも、自分の自由を犠牲にしたり、自分の力を矮小化したりすることはありません。【訳注:ここの意味は、私たちの思考エネルギーは物理的な電気エネルギーなどよりも利用する際の個人の自由度が高く、主体性も発揮しやすいものであるということです。】この相互依存の法則についての知識が深まれば深まるほど、それが自由へとつながることがわかってきます。それは、私たちが最初に自然に従うのとまったく同じ程度に、自然が私たちに従うという物理科学に見られるのと同じ原理によるものです。秘儀的な格言にあるように、「一つの面での真実はすべての面での真実です」。 しかし、この肉体、心、環境を解放する鍵は、新しい条件を創造する新しい思考にあります。なぜなら、それが創造プロセスの真の秩序を実現するものであるからです。【訳注:新秩序は、思考→条件→結果です。条件→思考→結果ではありません。】したがって、生命、光、自由を新たに私たちの人生にもたらしたいのであれば、私たちの思考から始めなければならず、新たな創造的シリーズの出発点を自分自身の心の内に見つける必要があります。それも、個人的な意志の力によってではなく、その本質である愛と美の表現において、すべてのものを新しくしてくれる神との調和によってです。