個人的人格(個別的存在)は、先週の日曜日に考察したとおり普遍的精神(神)の必要な補完物です。人生のすべての問題は、個別的存在と普遍的な始原の精神(神)との真の関係を見つけることにあります。そして、これを知るための最初のステップは、普遍的精神がいかなる存在であるかを理解することです。私たちはすでにこれをある程度探究してきましたが、到達した結論は次のとおりです。
普遍的精神の本質は生命、愛そして美であること。
普遍的精神の第一の心の動きは、その本質である生命、愛、美を表現することにあること。
普遍的なる神は、個別的存在となり(個別的存在を創造し)、それを通してしか自己表現できないこと。
この3つの公理が明確に把握できれば、私たちは今日のテーマを考察するための確固たる土台を手に入れたことになります。
まず、自然に湧いてくる疑問があります。それは、もしこれらがその通りであるならば、なぜ一人ひとりが普遍的精神の本性である愛と美を表現していないのかということです。この疑問に対する答えは、「意識の法則」の中に見出せます。私たちは、何事も、それと自分との関係を認識することなしには、それを意識することはできません。それが私たちに何らかの影響を及ぼさないことには、私たちがその存在を意識することはありません。そして、その影響の及ぼし方に応じて、私たちは自分がその存在と関係していることを認識するのです。精神的、知的、あるいは肉体的を問わず、すべての関係性に対する私たちの自己認識こそが、私たちの生命の表現(人生)となるのです。この原理に基づけば、始原の心(神)にとって、自らの生命性を表現するためには、自分が関係性を意識することのできる別の生命の中心、すなわち個別的存在を創り出すことが必要となります。そして、神の自己表現は、個別的存在が神に対して完璧な自由性を有する場合にのみ、完全なものとなります。そうでなければ、真の表現にはなりません。例えば、愛の働きを考えてみましょう。愛は自発的なものでなければ、愛とはいえません。機械的に作り出される愛など想像もつきません。自分の意志によらず、自動的に効果を生み出すように作られたものは、機械の部品にほかなりません。したがって、神が愛を真に表現しようとするならば、それは愛を与えないでおくこともできる力を持つ存在との関係によってのみ可能なのです。これは他のすべての生命性の表現についても同様です。個々の生命が独立した行動の中心であり、肯定的にも否定的にも行動することが可能であることに比例して、それらは真の表現となるのです。被創造物が単なる機械的なものでなければないほど、創造性のレベルは高くなります。太陽系は機械的な創造による完璧な作品ではありますが、神の心の最高の性質と相互作用できる中心であるためには、完璧な機械ではなく、それ自体が独立した精神的な中心であることが必要なのです。したがって、この要件により、人間は、自分を生み出した親なる神の心に対して、肯定的な関係にも否定的な関係にもなることができなければなりません。そうでなければ、人間はただの時計仕掛けの人形に過ぎません。
そして、この必然性の中に、神の生命、愛、美がすべての人間において目に見える形で再現されない理由を見出すことができます。それらは機械的かつ自動的なものであれば、そのように自然界に再現されます。しかし、それらの完璧な再現は、神そのものの自由と同様の自由に基づいてのみ可能なのです。その自由とは肯定と同様に否定することもできる自由です。
では、なぜ、私たちは否定的な選択をするのでしょうか。それは、私たちが自分の個性の法則を理解せず、自由ではなく制約の中に生きていると信じているからです。私たちは、自分の内にある創造的プロセスの出発点【訳注:神と等しき何ものにも制約されないフィーリングと思考】に目を向けずに、人生についての考えの基礎を物事の即物的側面に求めています。その結果、私たちの考えは、人生には限りがあるという結論に達します。なぜなら、私たちは前提として制約を仮定しているため、その結論づけにおいて、論理的にそれから逃れることはできないからです。 そして、これが法則だと思い込んでいるので、それを超越する考えを嘲笑します。人は死や病気や災害が個人に影響を及ぼすその原因と結果の連鎖を指摘し、その連鎖が法則であると言います。確かに、これは一つの法則(a law)という限りにおいては、完全に正しいと言えますが、しかし、それは絶対的法則(THE Law)ではありません。この程度の理解力では、高次の法則が低次の法則を完全に包含し得るものであることまではわかりません。
この否定的な議論に含まれる誤りは、制限の法則がすべての段階の存在にとって本質的なものであると仮定することにあります。鉄の船を作るのは不可能だというのは、昔の船大工の誤った考えです。必要なことは、その法則の肯定的な働きの奥にある原理をつかみ取り、それを自然界が自然に提示する条件よりも高い条件下で特殊化することであり、これは人的要素、つまり原理を理解できる個人の知性の導入によってのみ可能となります。では、私たちが誕生した原理は何なのかという質問になりますが、これはいかにして万物が存在するようになったのかという一般的な質問の人間版に過ぎません。さて、前項で指摘したように、物理科学からの究極の推論は、万物創造の始原となる動きは神の心の中で生じており、それは私たち自身の想像力と類似のものであるということです。そして、今見たとおり、私たちの完璧な理想像とは、神のすべての資質と相互に作用し合えるものでなければならないということです。したがって、人間は、その最も内なる本質において、絶対的領域にいる神が相対的領域において自分自身のイメージを描き出すための創造物であるということになります。
それゆえ、もし私たちが、哲学と聖書が等しく「神のイメージに似せて作られた」と断言している、私たち自身の最も内なる原理に目を向けるならば、人間とは単なる霊体の乗り物ではなく、すべての肉体的状態とすべての生存環境を構築しようとする神の代理人であることに気付くことでしょう。私たちは、たとえ私たちがその事実に気づかなくても、すべてのものの上にあり、それらを創造するための相対的世界における第一原因なのです。この認識は、私たちが相対している世界全体と自分との関係性の発見でもあります。一方で、この認識が、人間よりも高次の存在は何もないと考えるような過ちに私たちを導くことはありません。というのも、すでに見てきたように、私たち人間は、それ自体が先行する神の思念という原因の結果であり、神の心の中のイメージから生じたものであるからです。
かくして、私たちは、一方では真の第一原因の世界(絶対的領域)、他方では第二原因の世界(相対的領域)の中間に位置していることに気づかされます。この立場の意味を理解するためには、普遍的なる神(絶対的存在)は個(相対的存在)を通してのみ特定の平面上(相対的世界)で働くことができるという公理に立ち戻る必要があります。そうすれば、個である私たち人間の役割とは、神の代わりとして、相対的世界において二次的因果関係の列車をさまざまな方向に出発させることであることがわかります。
宇宙の秩序における人間の立場は、神の力の分配者であって、その力に手を加えたりするものではありません。このことの一例は、通常の科学において、私たち人間は決して力を生み出すことはなく、それを配分あるいは利用することしかできないという事実を見れば分かります。【訳注:重力を利用することはできても重力自体を創り出すことはできません。】Manという言葉は、サンデライト語の語源MNに由来するすべての言葉に共通するように、分配者、あるいは測定者を意味します。それは、月(moon)、月(month)、その間(mens)、心(mind)、そして、「man」(インドにおける重さの単位=約36.3kg)という言葉と同様に計測の概念を暗示しています。聖書で人間が「執事」、あるいは神の贈り物の分配者として語られるのは、このためです。この立場の完全な意味を私たちが理解するにつれて、そこに含まれる計り知れない可能性と責任が明らかになります。
それは、個人が自分自身の世界の創造的な中心であることを意味します。私たちの過去の経験は、これに反する証拠を与えるものではなく、それどころかそれを支持する証拠となります。【訳注:よくよく観察すれば、私たちの過去から現在に至る諸状況は私たちの思考とフィーリングの結果であることがわかります。】私たちの本質は昔も今もつねに同じです。ただ、私たちはこれまで、物事の低次元で即物的な側面を出発点としてきたために、自由な拡大ではなく、不自由な制限を生み出してきたのです。そして、今、私たちが手にした創造の法則の知識をもってしても、私たちの上にある唯一のもの、すなわち神の心にではなく、私たちの下にあるもの(この世の有限な物事)に出発点を求めるならば、相変わらず不自由な制限を生み出しつづけることになるでしょう。なぜなら、私たちが無限の創造的な力を見つけることができるのは神の心の中しかないからです。人生とは「存在すること」です。それは意識の状態に基づく経験であり、私たちの内的な意識の状態と私たちの外的状態との間には、確実な対応関係があります。さて、神の原初の創造活動(天地創造)からわかることは、意識の状態が原因であり、それに対応する条件が結果でなければならないということです。なぜなら、創造の始まりにおいてはいかなる外的な条件も存在せず、神の意識しかなかったはずだからです。意識の状態から条件へ、これが明らかなる創造の秩序です。しかし、私たちはこの順序を逆転させ、条件から状態を創造しようとしがちです。私たちは、もしこれこれこのような条件を有していたなら、私が望むよい感情の状態を得ることだろうと言い、そう言うことで、対応を間違えてしまう危険があります。というのも、私たちが特定したその条件が、望ましい状態を生み出すようなものでないかもしれないからです。あるいはまた、そのような条件によってある程度は結果が得られたとしても、他の条件であればさらに大きな結果が得られたかもしれませんし、同時に、さらに高い状態やさらによい条件を達成するための道が開かれたかもしれません。したがって、私たちの最も賢明なやり方は、思考の力を信じ、思考の法則によって関連する条件が自然な成長の過程によってもたらされることを知ったうえで霊的生命体としての自己認識を出発点とすることです。そして、この自己認識とは、私たちと至高の神の関係性についての認識です。至高の神は発電センターであり、私たちは配電センターです。電気が中央発電所で発電され、適切な配電センターを通過することによって、さまざまな形の電力として届けられるのと同じです。ある場所では部屋を照らし、別の場所ではメッセージを伝え、3番目の場所では路面電車を走らせます。それと同じように、普遍的な心(神)の力は、個人の特定の心を通して特定の形をとります。それは、個性に干渉することなく、その個性に沿って働き、個人をよりその個人らしくするのです。つまり、それは一方的な力ではなく、個人を拡大し、照らし出す力なのです。ですから、私たちがこの神の力と自分との間の相互作用を認識すればするほど、私たちはより生命に満ち溢れるようになるに違いありません。
そしてまた、私たちは将来の条件(人生環境等)について悩む必要はありません。なぜなら、私たちはすべての始原の力(神の力)が私たちを通して、私たちのために働いていること、現存するすべての被創造物が証明しているように、すべての始原の力が生命、愛、美の表現に必要なすべての条件を生じさせていて、それが私たちの進む道を開いてくれることを完全に信頼することができることを知っているからです。偉大なる教師(聖書)の「明日を考えるな」(正しくは「不安なことを考えるな」)という言葉は、最も健全な哲学の実践です。これは、もちろん、力を発揮するなということではありません。私たちは、自分の役割を果たすべきであり、神が私たちを通してしかできないことを、私たちのために一方的にしてくれると期待してはならないのです。私たちは、自分の常識と生来の能力を駆使して、現在の状況に対処しなければなりません。私たちは、それらを限りなく活用しなければなりません。しかし、現状で必要とされる以上のことをしようとしてはなりません。すべてを創造する叡智の導きのもとで物事が進行していることを知ったうえで、物事を無理に進めようとはせず、自然に成長させなければなりません。 この方法に従うことで、私たちはますます、心の働きとしての精神的態度こそが人生における進歩の鍵であると見る習慣を身につけ、すべてはそこから生じることを知るようになります。さらに、私たちの精神的態度は、結局、神の心をどのように見るかによって決まることに気付きます。そして、最終的な結果として、私たちは神の心が生命、愛、美以外の何物でもないことを知るに至ります(美とは智慧、あるいは全体(神)に対する部分(個別的存在)の完璧な調和です)。私たちはこれらの主要エネルギー(生命、愛、美)の分配センターであると同時に、創造力の下位センターです。この知識を深めるにつれて、私たちは、低次の法則が部分的な表現に過ぎないところの、より高次の法則を見つけ、諸々の制限を次々と乗り超えていけることに気づきます。そして、私たちの究極の目標とは、自由性の完璧な発揮に他ならないことを、はっきりと知るに至ります。その自由とは法なき無政府状態の自由ではなく、法に従った自由です。このようにして、私たちは使徒が「神をあるがままに見るとき、我々は神のようになる」と述べたのは、文字通りの真実であることに気づきます。なぜなら、私たちの個性の生み出されるプロセス全体が、神の心の中に存在するイメージの反映であるからです。このように、私たちが自分自身の存在の法則を学ぶと、これまではほとんど考えもしなかった方法で、それを特殊化することができるようになります。しかし、すべての自然法則の場合と同様に、一般法則の基本原理が完全に理解されない限り、特殊化は起こせません。このような理由から、受講者の皆さんは普遍的な心と個々の心との関係の法則を、理論と実践の両面で、ますます完璧に理解するよう努力しなければなりません。この相互作用の事実を理解すれば、同じ法則が、なぜ鉄は水に沈むのか、そしていかにしてそれは水に浮かぶようになるのかを説明するのとまったく同様に、なぜ人は普遍的精神が持つ完全な生命を表現することができないのか、そしてなぜ人はそれを完全に表現することができるのかの両方を説明できることがわかるでしょう。普遍的精神と自分との相互関係を認識することによって普遍的精神を個別化すること、それが私たち自身の個性を永続させ、成長させる秘訣なのです。