5-3-1-6.第6章「聖人、賢人、救世主:奉仕の法」

完全で円満な生命として現れる愛の精神は、この地上における存在にとって王冠に値するものであり、知識として理解すべき究極の目的です。

人の真理のレベルは、その人の愛のレベルであり、愛に悖る(もとる)生活をしている人は、真理から遠く離れています。不寛容で他人を非難する人は、たとえ最高の宗教を口にしていても、真理のレベルは最低です。忍耐力を発揮し、冷静に感情に動かされることなく、すべての側の意見に耳を傾け、あらゆる問題や課題に対して、自分のみならず他人をも思慮深く偏りのない結論に導く人の真理のレベルは最高です。智慧の最終テストは、その人はいかに生きているか、その人はどのような精神を体現しているか、試練や誘惑のもとで、その人はいかに行動しているかです。絶えず悲しみや失望、激情に揺さぶられ、最初に訪れる小さな試練の下に沈む人の多くが、自分は真理のもとにあると自慢しています。真理とは不変のものであり、人は真理に立脚すれば、その徳は揺るぎないものとなり、激情や喜怒哀楽、人格の豹変とは無縁になります。

人は、いずれは消える主義主張を打ち立てて、それを真理と呼びますが、真理は公式化できるものではありません。言語を絶したものであり、知性の及ぶところではないのです。真理は実践によってのみ経験することができ、潔白な心と完璧な人生としてのみ現れ出ることができるものです。

学校教育と宗教と政党間の絶え間ないカオス(混沌)の中で、いったい誰が真理を有していますか。真理に生き、真理を実践し、自分自身を克服することによってこのカオス(混沌)を乗り超えた人は、もはやそれに関わることはなく、それとは距離を取り、静かに、落ち着き、冷静かつ沈着に、すべての争い、すべての偏見、すべての非難する心から解放され、すべての人に喜びと、自分の内なる神性の無私の愛を与えるのです。

どんな状況下でも、忍耐強く、穏やかで、優しく、寛容である人は、真理を体現しています。真理は、言葉巧みな議論や学問的な論説では決して証明されません。なぜなら、無限の忍耐、永遠の赦し、すべてを包み込む慈悲に真理を感じ取れないような人に、言葉で真理を証明することなどできないからです。

激情的な人が、一人でいるとき、あるいは平静の中にあるときに、冷静で我慢強くあるのは簡単なことです。無愛想な人が親切にされているときに、人に優しく親切であるのも同じく簡単なことです。しかし、あらゆる試練の下で忍耐心と冷静さを保ち、最も困難な状況の下でこの上なく柔和で穏やかであり続ける人、そのような人だけが、汚れなき真理を有しているのです。なぜなら、そのような高邁な美徳は、神に属するものであり、最高の智慧に到達し、激情的で身勝手な性質を放棄し、最高で不変の法則を理解し、それに自分を調和させた人によってのみ発現され得るものだからです。

それゆえ、真理についてのむなしい激情的な議論をやめ、調和と平和と愛と善意をもたらすようなことを考え、話し、行うようにしなさい。心の美徳を実践し、魂をあらゆる誤りや罪から、また人間の心を荒廃させ、地上のさまよえる魂の行く手を終わりのない夜のように暗くするものから解放してくれる真理を、謙虚に、熱心に探し求めなさい。

宇宙の基礎であり原因である、すべてを包括する偉大な一つの法則があります。それは「愛の法則」です。それは、さまざまな国においてさまざまな時代に、さまざまな名称で呼ばれてきましたが、真理の目で見れば、そのすべての名称の背後に、同じ不変の法則があることが分ります。名称、宗教、人は過ぎ去れども、「愛の法則」は残ります。この法則の知識の持ち主となり、この法則と意識的に調和することは、不死身、無敵、不滅になることです。

この法則を悟るための魂の努力ゆえに、人は何度も何度も生き、苦しみ、死ぬためにこの世にやってきます。そして、体現できたとき、苦しみはなくなり、人格は消え、肉体の生死は超越されます。なぜなら、意識が永遠と一つになるからです。

法は完全に非人格的であり、その最高の表現は「奉仕」です。純化された心が真理を悟ったとき、最後の、最も偉大で最も神聖な犠牲、すなわち真理を十分に享受することの犠牲が求められます。神によって解き放たれた魂が、肉体をまとって人々の間に住むようになり、最も卑しく最も取るに足りない人々の間に住むことに満足し、全人類のしもべとして尊敬されるのは、この犠牲のおかげです。世界の救世主によって示された崇高な謙虚さは、神格の印であり、人格を消し去り、非人格的な、永遠の、無限の愛の精神の生きた目に見える鑑となった者だけが、後世の人々の惜しみない崇拝を受けるに値するものとして選び抜かれるのです。自己を滅するだけでなく、無私の愛の精神をすべての人に注ぎ込む神の謙虚さを身につけることに成功した人だけが、計り知れないほど高く評価され、人類の心の中に精神的な支配権を与えられるのです。

偉大な真理の導き手はみな、個人的な贅沢や安楽や報酬を否定し、現世の権力を棄てて生き、そして無限で非人格的な真理を教えました。彼らの人生と教えを比べてみると、同じシンプルさ、同じ自己犠牲、同じ謙虚さ、愛、平和を彼らが生き、説いたことがわかるでしょう。彼らは、その実現がすべての悪を滅ぼす同じ永遠の原理を教えたのです。人類の救世主として歓迎され崇拝されてきた彼らは、非人格的な大法の現れであり、そのような存在であるため、激情や偏見がなく、自己主張もなく、説教し守るべき教義書も特になく、決して人を改宗させようなどとはしませんでした。最高の善、最高の完成の中に生きる彼らの唯一の目的は、その善を思考と言葉と行いに現すことによって人類を向上させることでした。彼らは、人格的な人間と非人格的な神の間に立ち、自己の奴隷になっている人類を救済するための模範的な手本として奉仕するのです。                                 

自己に埋没し、絶対的に非人格的な善を理解できない人間は、彼らの救世主以外のすべての救世主の神格を否定し、個人的な憎悪と教義上の論争に走り、自分の特定の信条に過激なまでに固執し、お互いを異教徒または異端者と見なします。その結果、彼らは自分の人生において、自分の師の人生と教えの無私なる美しさと聖なる偉大さを台無しにしているのです。真理は普遍的なものであり、どんな人や学校、または国家に対しても特権を与えたりはしません。自我が介入する時、真理は失われます。

聖人、賢人、救世主に共通する栄光は次の点にあります。それは、最も低い身分と最も崇高な無私を実現したことであり、自分の人格さえも滅した彼の仕事のすべては、自己のあらゆる汚れから解放されているがゆえに、神聖であり永続的です。彼は与えることはあっても、受け取ることは考えず、過去を悔やむこともなく、未来に期待することもなく、報酬を求めずに働きます。

農夫は、自分の土地を耕し、整え、種を蒔いたとき、自分ができることはすべてやったと思い、あとは自然の力に任せ、時が収穫をもたらすのを辛抱強く待たなければならず、自分の側でいくら期待しても結果は変わらないことを知っています。同じく、真理を悟りし者は、善、清らかさ、愛、平和の種を蒔く者として、期待することなく、決して結果を求めることなく、保護と破壊の源である大いなる支配の法則がやがて自らの収穫をもたらすことを知ってことをなします。

人は、大いなる無私の心の神聖なシンプルさを理解せず、自分の特定の救世主を特別な奇跡の現れとして、物事の本質とは全く別のものであり、その倫理的卓越性において、全人類が永遠に近づくことのできない存在であるとみなしています。人間の神の子としての完全性を信じない、このような見方は、努力の姿勢を失わせ、人の魂を太いロープのごとく罪と苦しみに縛り付けるものです。イエスは「智慧を高め」、「苦しみによって完成された」のです。イエスがそうであったように、ブッダがそうであったように、すべての聖人は、自己犠牲における絶え間ない忍耐力によってそうなったのです。このことを一旦認識し、注意深い努力と希望に満ちた忍耐によって、自分の低次の性質を超えることができると理解したならば、あなたの前には偉大で輝かしい未来の展望が開けることでしょう。ブッダは「完全無欠の境地に達するまで努力し続ける」と誓い、目的を達成しました。

聖人、賢人、救世主が成し遂げたことは、あなたがたも、彼らが歩み、指し示した道、すなわち自己犠牲の道、自己否定の奉仕の道を歩みさえすれば、同様に成し遂げることができるのです。

真理はとてもシンプルです。真理は、「自己を捨てよ」「わたしのもとに来なさい」(すべての汚れから離れなさい)「そうすれば、わたしはあなたに安らぎを与えよう」ということです。「正しさ」を真剣に求める人は、真理の上に積み上げられたあらゆる解説の山にも、心を奪われることはありません。真理は理屈ではありません。理屈なしでも分かるものです。誤った自己探求の人間によって、様々な形に変容されても、真理の美しいシンプルさと透明さは、変わることなく、薄まることもなく、無私の心はその輝きの中に入り、それを浴びることができるのです。複雑な理論を編み出したり、思索的な哲学を構築したりすることで真理が実現されるのではありません。内なる純粋さで布を織り、無垢な人生の神殿を構築することによって、真理は実現されるのです。

この聖なる道に入る人は、まず自分の激情を抑制することから始めます。これは美徳、すなわち聖人らしさの始まりであり、聖人らしさは神聖なるものの始まりです。全く世俗的な人間は、自分の欲望をすべて満足させます。そして、自分が住んでいる所の法律が要求する以上の自己抑制は行いません。徳の高い人は、自分の激情を抑制します。聖人は、自分の心の内にある真理の敵(己心の魔)の牙城を攻撃し、すべての利己的で不純な考えを抑制します。そして、神聖なる人は、激情とすべての不純な考えから解放され、善と純粋さが、花にとっての香りと色彩のように自然になっている人です。神聖なる人は神のように賢く、彼だけが真理を完全に知っており、永遠の安息と平和に入っています。彼にとって、悪は消滅しています。全き善の普遍的な光の中に消えてしまったのです。神聖さは智慧の象徴です。クリシュナは、アルジュナ王子にこう言いました。

謙虚さ、真実さ、無害さ、
忍耐と名誉、賢者への畏敬の念、
純真さ、節操、克己心、
感覚的喜びの軽蔑、自己犠牲、
誕生における不幸の確実性の認識、
すなわち、死、老い、病気、苦しみ、罪。

幸運と悪運の中で、常に静かな心…
…断固とした努力
最高の魂の知覚に到達するための、
そして、獲得すべきものは何なのかを理解することの恵み、これこそ真の智慧です、王子よ!

そうでなければ無知です!

自分の利己心と絶え間なく戦い、それをすべてを受け入れる愛と入れ替えようと努力する人は誰でも聖人です。たとえ、その人が小屋に住んでいようと、富と影響力の中にいようとも、はたまた、説教をしていようと、世に知られないままでいようとも。

高みを目指し始めた俗人にとって、聖人、例えばアッシジの心優しき聖フランチェスコや悪を征服せし聖アンソニーは、栄光と感動に満ちた圧巻的存在です。聖人にとって、同様に魅力溢れる光景は、罪と悲しみを克服し、後悔と自責の念に苛まれることなく、誘惑さえも決して届かない、静謐で神聖な姿で座している賢者の姿です。そして、その賢者でさえも、もっと輝かしいビジョンに引き付けられます。それは、救世主が積極的に自分の知識を無私の行いに現し、その神聖をより強力なる善にするために、人間の慟哭と悲しみと渇望の中に身を沈める姿です。

そして、これこそが真の奉仕であり、万物への愛に我を忘れ、全体のために働くことに我を忘れることなのです。オー、汝、虚栄心の強い愚かな者よ、汝の多くの仕事が汝のためになると考えている者よ、あらゆる誤りに縛られて、汝自身と汝の仕事と汝の多くの犠牲を声高に話し、汝自身の重要性を誇張している者よ、これを知れ。汝の名声が全地上を満たしたとしても、汝の仕事はすべて塵となり、汝自身が真理の王国においては最も低き者よりも低き者と見なされることを。

非人格的な仕事だけが生き延びることになるのです。自己のための仕事は無力であり、滅びやすいものです。どんなに地味な仕事でも、私利私欲を捨て、喜びの犠牲を払って行うところに、真の奉仕があり、永続的な仕事となります。どんなに素晴らしく、一見成功したように見える行為であっても、自己愛から行われる所には、「奉仕の法」の無知があり、その仕事は滅びます。

世界に与えられているのは、一つの偉大で神聖な教訓、絶対的な無欲という教訓を学ぶことなのです。いつの時代も、聖人、賢人、救世主は、この課題に身を投じ、それを学び、生きた人たちです。世界中のすべての聖典は、この一つの教訓を教えるために編まれており、すべての偉大な教師はこれを繰り返し述べています。これは、実に単純なことなのですが、世界はこれを軽んじ、利己主義の複雑な迷路の中でつまずいています。

純粋な心は、すべての宗教の目的であり、神性の始まりです。この道徳的な正しさを探求することは、真理と平和の道を歩むことであり、この道に入る者は、生死を超越した不死をすぐに認識し、宇宙の聖なる経済学においては、最も地味な努力も無に帰すことはないことを理解することになります。

クリシュナや仏陀やイエスの神聖は、自己放棄という最高の栄光であり、物質と死すべき運命の中での魂修行の終着点です。すべての魂がこのような、自らの神聖の至福の実現に至るまで、世界はその長い旅を終えることはないでしょう。

苦闘の末に勝ち得た希望の高みに、大きな栄光が戴冠します。

力強い仕事を果たした白髪の頭には、輝かしい栄誉が巡ります。

金儲けの道を究める者には、公正な富がもたらされます。

そして、天才的な頭脳で仕事をする人の名は、名声に包まれます。

しかし、より大きな栄光が待ち受けているのは、「自己と悪との無血の闘い」において、愛のうちに犠牲的な人生を選ぶ人です。

そして、より輝かしい名誉が、盲目的な自己崇拝者の軽蔑の中で、いばらの冠を受け入れる者の額を飾ります。

そして、人々の生活を豊かなものにするために愛と真実の道を歩み、大いに努力する者には、より公平でより純粋な富がもたらされます。

そして、人類によく奉仕する者は、束の間の名声の替わりに、永遠の光、喜びと平和、天国の輝かしい光彩の衣を得るのです。

第7章「完全なる平和の実現」はこちら

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