5-3-1-2.第2章「二人の主君、自己と真理」

人間の魂の戦場では、二人の主君が常に主権、すなわち、心の王権と支配権を求めて争っています。自己の主君はこの世の王子と呼ばれ、真理の主君は父なる神と呼ばれています。自己の主君は、神に反逆的で、その武器は激情、プライド、強欲、虚栄、わがままなどの闇の道具です。真理の主君は、柔和で驕ることなく、その武器は優しさ、忍耐、純潔、犠牲、謙遜、愛などの光の道具です。

すべての魂で戦いが繰り広げられ、一人の兵士が対立する二つの軍隊に同時に属することができないように、すべての心は自己側か真理側かのいずれかに属しています。半々のコースなどはありません。「一方に自己があり、他方に真理があり、自己があるところに真理はなく、真理があるところに自己はありません」。かくして、真理の教師であるブッダは語り、キリスト教精神の体現者であるイエスは述べました。「人は二人の主君に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を重んじて他方を軽んじるかのどちらかである。あなたは神と悪魔に仕えることはできない」と。

真理は非常にシンプルで、絶対に揺るぎないものであり、妥協の余地のないものです。真理は複雑なものではなく、変化するものでもなく、ある条件を特別に認めることもありません。自己は巧妙で、不正直で、ずる賢い欲望に支配されて、際限のない変節と特別な条件付けを認めます。惑わしの自己の崇拝者たちは、世の中のあらゆる欲望を満たすことができ、同時に真理も有することができるとうぬぼれていますが、真理を愛する者は、自己を犠牲にしてまで真理を崇拝し、絶え間なく世俗性と利己主義から自らを守っています。

あなたは、真理を知り、真理を実現することを求めていますか。そうであれば、犠牲を払い、徹底的に自己を放棄する覚悟が必要です。なぜなら、すべての栄光に満ちた真理は、自己の最後の痕跡が消えたときにのみ、感じ取り、知ることができるからです。

永遠のキリストは、「弟子となる者は日々自己を捨てなければならない」と言い放たれました。あなたは自己を否定し、欲望や偏見、自説を捨てようと思いますか。そうであれば、あなたは真理の狭い道に入り、世俗を離れた平安を見出すことができるでしょう。自己の絶対的な否定と完全な消滅が真理の完全な状態であり、すべての宗教と哲学は、この最高点へ到達するための補助手段に過ぎません。

自己とは真理の否定です。真理とは自己の否定です。自己を死滅させれば、真理の中に生まれ変わります。自己にしがみつけば、真理は隠されたままです。自己にしがみつく限り、あなたの人生は困難で塞がれ、苦しみや悲しみ、失望の繰り返しに見舞われます。真理には困難はなく、真理に来たれば、あなたはすべての悲しみと失望から解放されます。

真理それ自体は、隠されているものでもなく暗くて見えないものでもありません。それは常に明らかにされていて、完全に明白なものです。しかし、盲目で身勝手な自己には、それを知覚することができません。日の光が盲人を除けば隠されることがないように、真理の光も自己によって目をくらまされている者を除けば隠されることはありません。

真理とは、宇宙における唯一の実在であり、それは内なる調和、完全なる正義、永遠なる愛です。何を足すこともできないし、何を引くこともできません。真理はどんな人間にも依存しませんが、すべての人間は真理に依存しています。自己の目を通して見ているうちは、真実の美しさを認識することはできません。見栄っ張りな人は、すべてのものを自分の虚栄心で色付けします。もし貪欲であれば、あなたの心は激しい感情の煙と炎で曇り、それらを通してすべてが歪んで見えるでしょう。もし、プライドが高く、自分の意見に固執すれば、全宇宙において自分の意見の大きさと重要性以外は何も見えないでしょう。

真理の人と自己の人の違いを際立たせる一つの資質があります。それは謙虚さです。虚栄心、頑固さ、自惚れがないだけでなく、自分の意見を無価値とみなすこと、これこそ真の謙虚さです。自己に固執している者は、自分の意見を真理とみなし、他人の意見を誤りとみなします。しかし、意見と真理を区別することを学んだ謙虚な、真理を愛する者は、慈愛の目ですべての人を見、自分の意見を相手の意見に対して守ろうとせず、自分の意見を犠牲にして、もっと、人を愛し、真理の精神を現そうとします。というのも、真理とはその本質において、言葉で語られるものではなく、実践することに意味のあるものだからです。慈愛の思いを最も多く持つ者は、真理を最も多く持つ者です。

人は実際には自分の取るに足らない利益と意見を守っているに過ぎないのに、激しい論争に参加し、愚かにも自分が真理を守っていると思い込んでいます。自己の信奉者は他者に対して武器を手にします。真理の信奉者は自分に対して武器を手にします。不変であり永遠である真理は、あなたの意見からも私の意見からも独立しています。私たちは真理の中に入ってもいいし、真理の外に立つこともできます。しかし、真理に対しては守りも攻めも余計なもので、そんなことをすればそれは自分自身に対して強い力で跳ね返ってきます。

自己の奴隷となり、激情的で、プライドが高く、非難的な人は、自分の特定の信条や宗教が真理であり、他のすべての宗教は誤りであると信じ、そして激情的な熱心さをもって改宗させようとします。しかし、宗教はただ一つであり、それは真理です。しかし、誤りはただ一つであり、それは自己です。真理とは形式的な信念ではなく、無私の心、聖なる心、大志の心であり、真理を持つ者はすべてと平和であり、愛の思いですべてを大事に包み込みます。

自分が真理の子であるか、自己の崇拝者であるかは、自分の精神、心、行いを静かに点検すれば、簡単にわかることです。あなたは、疑い、敵意、妬み、欲望、プライドを心に抱いていますか、それとも、これらと激しく闘っていますか。もし、前者であれば、どんな宗教を公言していようとも、あなたは自己に囚われています。もし、後者であれば、表向きには無宗教を公言していても、あなたは真理の徒です。

あなたは激情的で、強情で、常に自分の目的を達成しようとし、自分勝手で、自己中心的ですか。それとも、あなたは、優しく、温和で、利他的で、あらゆる形の身勝手さをやめ、いつも自分自身を捨てる用意ができていますか。前者であれば、自己があなたの主君(愛の対象)であり、後者であれば、真理があなたの主君(愛の対象)です。

あなたは金持ちになろうとしていませんか。あなたは、自分の所属する政党のために、激情を持って戦っていやしませんか(訳注:正義なき党利党略による政争のことです)。あなたは権力やリーダーシップを欲していませんか。あなたは自己誇示や自画自賛に走っていませんか。それとも、富に執着することをやめましたか。あなたはすべての争いを放棄しましたか。あなたは、最下層にいて、気づかれずに通り過ぎられることに満足していますか。また、自分について語ったり、自己満足的なプライドを持つことをやめましたか。前者であれば、たとえ自分が神を崇拝していると思い込んでいても、あなたの心の神は自分自身です。もし後者なら、たとえ礼拝などはしていなくても、あなたは至高の方と共にあります。              

真理を愛する人の印は、間違えようのないものです。エドウィン・アーノルド卿の『バガヴァッド・ギーター』の美しい翻訳で、聖なるクリシュナの言葉を聞いてください。

「恐れ知らずで、一途な魂、常に智慧を求めようとする意志。
物惜しみすることなく、よくコントロールされた欲と敬虔さ。
そして孤独な思索を愛し、謙虚で、
まっすぐで、生きているものを傷つけないように注意し、真実に満ち、怒りに鈍く、他の人が尊ぶものを軽く手放す心。
平静さと人の欠点を探らぬ思いやり。
苦しむすべての人への優しさ。
欲望に揺らぐことのない満たされた心。
穏やかで慎ましやかで威厳のある立ち居振る舞い、忍耐力、不屈の精神、純粋さが気高く融合した人間性。
恨むことのない精神、自分を高く評価することを決してしない、そのような印が、オー、インドの王子よ!天国の誕生につながる清らかな道に足を踏み入れし者の印である!」

人間は、誤りと自己の邪な道に迷い、「天国への誕生」、すなわち神聖さと真理を忘れると、互いを評価するための人為的な基準を設け、それを自分自身の特定の神学として受け入れ、それに固執し、真理を測る物差しとします。その結果、人間は互いに分裂し、絶え間ない敵意と闘争、果てしない悲しみと苦しみの中に存在することになるのです。

読者よ、あなたは真理への誕生を実現しようとしていますか。そうであれば、方法は一つしかありません。それは自己を滅することです。

あなたがこれまで執拗にしがみついてきた激情、過食、欲望、見解、狭い概念、偏見、それらをすべてあなたの中から捨て去りましょう。もはや、それらのものにあなたを束縛させることのないようにしましょう。そうすれば、真理はあなたのものになるのです。自分の宗教が他のすべての宗教より優れていると考えるのをやめ(訳注:形骸化した既成宗教への捉われを戒める言葉と思われます)、謙虚に「慈愛」という最高の徳目を学ぶよう努力しなさい。あなたが崇拝する救い主が唯一の救い主であり、あなたの兄弟(隣人)が同じように誠意と熱意をもって崇拝する救い主は偽者であるという、争いと悲しみを生む考えに、もはや固執してはなりません。しっかりと聖なる道を求めなさい。そうすれば、すべての聖人が人類の救済者であることがわかるでしょう。

自己を捨てるということは、単に外側のものを放棄するということではなく、内なる罪、内なる過ちを放棄することなのです。虚栄の衣服を手放し、富を捨て、特定の食べ物を控え、綺語を語らない、単にこれらのことを行うことによって真理が見出せるのではなく、虚栄心を捨て、富への執着を捨て、自堕落な欲望をやめ、すべての憎しみ、争い、非難、利己主義をやめ、そして、心を穏やかで純粋なものにする、これらのことを行うことによって、真理は見出せるのです。後者は前者を含んでいますが、前者を行い、後者を行わないのは、形式主義であり、偽善です。外界を捨て、洞窟や森の奥に閉じこもっていても、利己的な心はすべて持ったままです。それを捨てない限り、あなたの惨めさは大きく、あなたの妄想は深まるばかりでしょう。あなたはすべての務めを果たしつつ、今いる場所に留まり、内なる敵である世俗的な心を捨てることができます。世俗にありながら世俗的でないということは、最高の完成であり、最も祝福された平和であり、最大の勝利なのです。

自己の放棄は真理の道ゆえ、「その道に入りなさい。そこには憎しみのような悲しみはなく、激情のような痛みはなく、五感のようなごまかしはありません。その道に入りなさい。その足が自分の好きな誘惑を踏みつける者は遠くへ行きます。」

自己の克服に成功すると、物事の正しい関係が見えるようになります。何らかの激情や偏見、好き嫌いに振り回されている人は、すべてをその特定の偏り(かたより)に合わせて、自分の妄想しか見ません。あらゆる激情、偏見、好み、偏愛から完全に自由である者は、自分をあるがままに見、他人をあるがままに見、すべてのものをその適正な尺度と正しい関係で見ます。攻めるものも守るものもなく、隠すものもなく、守るべき利益もなければ、人は平安の内にあり、真理の深遠な平明さを悟ります。というのも、この偏りのない、静謐な、祝福された精神と心の状態こそが真理の状態だからです。それに到達した者は、天使たちとともに住み、至高の者の足元に座します。

偉大な法則を知り、悲しみの起源を知り、苦しみの秘密を知り、真理における解放の道を知っている者が、どうして争いや非難に関わることがありましょうか。というのも、彼は、盲目の身勝手な世界にいる者は、自らの幻想の雲に取り巻かれ、誤りと自己の闇に包まれて、真実の不動の光を見ることができず、死んだも同然であるという単純な事実を全く理解できていないことを知っているからです。さらに、彼は苦しみの時が悲しみの山を築き上げたとき、打ち砕かれ重荷を背負わされた世界の魂、すべての放蕩者も、最後には真理の許に帰ってくることを知っているからです。それゆえ、彼はすべての人に善意を抱き、主なる父が道を踏み外した子に傾ける優しい思いやりをもって、すべての人に接することができるのです。

人は、自己に執着し、自己を信じ、自己を愛し、一つの幻想にもかかわらず、自己が唯一の実体であると信じているがゆえに真理を理解することができません。しかし、自己を信じ愛することをやめたとき、あなたは自己を捨て、真理へと飛翔し、永遠の実在を見出すことができるようになります。

人は贅沢、快楽、虚栄の酒に酔うと、命の渇きが自分の中で大きく、深くなり、肉体的な不死の夢で自分を欺きます。しかし、自分が蒔いた種を刈り取る日が来た時、痛みと悲しみが起き、打ちのめされ自尊心が傷つけられ、そして初めて、自己と自己のすべての酔いを捨て、痛む心で、唯一の不死、すべての幻想を打ち砕く不死、真理における精神の不死のところにやってきます。

人は悪から善へ、自己から真理へと、悲しみという暗い門を通り抜けて行きます。というのも、悲しみと自己は不可分だからです。真理の平安と至福の中でこそ、すべての悲しみは克服されるのです。もし、あなたが大事な計画を阻止されたり、誰かがあなたの期待に応えてくれなかったりして失望を味わうなら、それはあなたが自己にしがみついているからです。もし、あなたが自分の行いに良心の呵責を感じているなら、それはあなたが自己に道を譲ったからです。もし、あなたが誰かの態度のせいで、悔しさや残念さに打ちひしがれているとしたら、それはあなたが自己を大切にしてきたからです。もしあなたが、自分にされたことや言われたことで傷ついているとしたら、それはあなたが自己に捉われた苦しい道を歩んでいるからです。

すべての苦しみは自己のせいで生じ、すべての苦しみは真理で終わります。あなたが真理の道に入り、真理を悟れば、あなたはもはや失望や自責の念や後悔に苦しむことはないでしょう。そして悲しみはあなたから去っていくでしょう。                                                                      

「自己は、魂を縛ることのできる唯一の牢獄です。
真理は、牢獄の門を開けさせることのできる唯一の天使です。
真理があなたを呼びに来たら、立ち上がってすぐに従いなさい。
真理の道は暗闇を通るかもしれませんが、最後には光に至ります。」

世の中の災いは、それ自身が作り出しているのです。悲しみは魂を浄化し、深化させます。悲しみの極限は真理への先触れです。あなたは数多く苦しみましたか。深く悲しんだことがありますか。人生の問題について真剣に考えたことがありますか。もしそうであれば、あなたは自己と戦い、真理の弟子になる準備ができていることになります。

自己を捨てる必要性を知らない知識人は、宇宙について果てしない理論を組み立て、それを真理と呼びます。しかし、あなたは正義の実践という直接的な行為を追求しなさい。そうすれば、真理は理論にあるのではなく、また、真理は決して変化しないことが分るでしょう。心を耕しなさい。無私の愛と深い憐れみで絶えず心に水を与え、愛にそぐわないすべての思考や感情を遮断するよう努力しなさい。悪には善を、憎しみには愛を、不当な扱いには優しさを返し、攻撃されても黙っていることです。そうすれば、あなたの利己的な欲望はすべて愛の純金に変換され、自己は真理の中に消えていき、あなたは、頭を低くし、謙遜という神の衣をまとい、世の中を非の打ちどころなく歩むことになるでしょう。

疲れ果てし兄弟よ、来たれ!
汝の闘争と労苦を哀れみの主君の心の中に終わらせよ。
自己の荒涼とした砂漠を、なぜあなたは進みつづけるのか。
生き返らせてくれる真理の水を求めながら。
汝の探求と罪の道の傍らに
生命の喜ばしい小川が流れ、緑の中に愛のオアシスがあるというのに。
汝、来たりて休め、終わりと始まりを知れ。
求められしものと求めし者、見る者と見られしもの。
汝の主君は近づきがたき山に座しているのではなく、
空中に浮かぶ蜃気楼の中に住んでもいない。
また、汝が、絶望を取り巻く砂の小道で主君の魔法の泉を発見することもないだろう。
自分本位の暗い砂漠の中で、汝の王の、足の匂いの痕跡を疲れ果てながら探すのを止めよ。
もし汝が主君の話す甘い調べを聞きたいのなら
空虚に歌うすべての声に耳を貸さないようにせよ。
消えてなくなる場所から逃れ、汝の持つものすべてを放棄し、
汝の愛するものをすべて捨て去り、裸になれ。
最奥部に鋳込まれし汝自身の宮殿、
最も気高く、最も神聖で、最も不変のものがそこにある。
静寂の心の中に、主君は宿っている。
悲しみと罪から離れ、汝の悲嘆にくれた迷いから離れよ。
真理の主君が囁きながら、汝の魂が求めるものを告げる間、その喜びを浴びよ、そしてもはや彷徨うことなかれ。
疲れ果てし兄弟よ、汝の闘争と労苦を止めよ。
真理の主君の心の中に安らぎを見いだせ。
自己の暗い砂漠を疲れ果てながら進むのを止めよ。 来たりて、真理の美しき水を飲め。

第3章「霊的パワーの獲得」はこちら

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