5-3-1-1.第1章「瞑想の力」

精神的な瞑想は神聖への道です。それは、地上から天上界へ、誤りから真理へ、苦痛から心の平安へと至る神秘的な梯子です。
聖人は皆、そこに達しており、罪人(つみびと)も皆、遅かれ早かれ、そこに達しなければなりません。そして、この世に疲れた放浪者が自己と世間に背を向け、神の館に強い決意で顔を向けるとき、その黄金の地に立つことになるのです。瞑想の助けなしには、あなたは神聖なる境地、神聖なる姿形、神聖なる平安を手にすることはできず、真理の色あせることのない栄光と純粋な喜びは、あなたから隠されたままです。

瞑想とは、ある考えやテーマを徹底的に理解することを目的として、その考えやテーマに没入することです。あなたが常に瞑想しているものは何であれ、理解できるようになるだけでなく、あなたはますますそれに似たものになります。というのも、それはあなたの存在そのものに組み入れられ、事実上、あなた自身となるからです。したがって、利己的で堕落したものを常に考えていれば、あなたはついには利己的で堕落した者になり、純粋で無欲なものを絶え間なく考えていれば、必ず純粋で無欲な人になるのです。

あなたが最も頻繁に、そして強烈に考えていることは何なのか、静かな時間に、あなたの魂が最も自然に目を向けていることは何なのかを教えてください。そうすれば、あなたが向かおうとしているのは、苦難の場所なのか、平安の場所なのかを教えてあげましょう。神的なものであれ獣的なものであれ、あなた方が、常に考えていることの体現者となることは避けられない事実です。したがって、瞑想の対象は、それを思い浮かべるたびにあなたが高められるように、下(げ)ではなく上(じょう)なるものにしなさい。瞑想の対象は純粋で、利己的な要素が混じっていないものにしなさい。そうすれば、あなたの心は浄化され、より真理に近づくことでしょう。また、汚され、絶望的な誤りに引きずり込まれることもないでしょう。

瞑想は、精神的生活と知識のすべての成長の秘訣です。すべての預言者、賢者、救世主は、瞑想の力によってそうなったのです。
ブッダは「私が真理だ」と言えるようになるまで真理について瞑想しました。イエスは、神の遍在性を熟考し、ついに「私と父は一体である」と宣言するに至りました。
神の実在を中心とした瞑想は、まさに祈りの本質そのものでもあります。それは、魂が永遠に向かって静かに手を伸ばすことです。瞑想なき単なる願いごとの祈りは、魂のない肉体であり、罪と苦悩から精神と心を引き上げる力はありません。
もし、あなたが毎日、智慧のため、心の平安のため、より高き清らかさのため、そして真理のより完全な実現のために祈っているとしても、祈っていることが、まだ自分から遠く離れたところにあるとしたら、それは、あなたがそのことを祈りながらも、別のことを考え、行動していることを意味しています。あなたがそのような身勝手さをやめて、あなたが祈り求めている汚れなき現実をあなたが手に入れることを妨げている利己的な執着から心を離すなら、もし、あなたがもう神に対して、自分が受けるに値しないものを与えてくれるように頼んだり、あなたが他の人に与えるのを拒んでいる愛や思いやりをあなたに与えてくれるよう求めたりせず、真理にもとづいて考え、行動し始めるならば、あなたは日々、それらの実現に向かって成長していき、ついにはそれらと一つになることができるでしょう。

この世的な利益を得ようとする者は、そのために自ら進んで精力的に働かなければなりません。何もせずに、単に願いさえすれば、それが勝手にやってくると思っている人は、実に愚かな人です。努力なしで素晴らしいものが得られるなどと思ったりしないことです。あなたは真理の王国で真剣に働き始めたときにのみ、生命のパンの分け前に与(あずか)れるのです。あなたが不平を言うことなく、辛抱強く、求めるものにふさわしい努力を成し得たとき、それはあなたのものとなります。

もし、あなたが、単に自分の満足ではなく、真理を本当に求めているのであれば、もしあなたが、この世的なあらゆる快楽や利益よりも、さらに幸福そのものよりも、真理を愛しているのであれば、あなたはその達成のために必要な努力を惜しまないことでしょう。
もし、あなたが罪と悲しみから解放されたいのなら、もし、あなたが心底から求める汚れのない純粋さを味わいたいのなら、もし、あなたが智慧と知識を得て、深く変わらぬ心の平安を手に入れたいのなら、今すぐ瞑想の道に入り、瞑想の対象を真理としなさい。

まず、瞑想は無意味な夢想と区別されなければなりません。瞑想には夢想的で非実用的なところは何もありません。瞑想はシンプルで、あるがままの真理のみに意識を向けた、妥協なき探究的思考のプロセスなのです。かくして瞑想をしていると、もはや固定観念で自分を作り上げようとするのではなく、自己を忘れて、自分が真理を求めているのだということだけを思い起こすようになります。そして、過去に自分が作り上げた誤りを一つずつ取り除き、その誤りが十分に取り除かれたときに訪れる、真理の啓示を辛抱強く待ち続けるようになります。
心を静めて謙虚になれば次のことが分かります。
私たちの心の奥底には、真理が満ち満ちている場所があります。そして、その周りを壁のごとく肉体が取り囲んでいます。この明白な事実、それが真理なのです。それを困惑させ邪道に導く肉体の網が、それを覆い隠し、すべての誤りを引き起こします。なすべきは、むしろ、閉じ込められていた輝きが外に漏れ出るための通路を開くことであり、外にあるはずと思っている光を取り入れるための通路を作ることではありません。それをよく知ることです。

一日のうちで瞑想する時間を決め、その時間を自分の目的のために捧げてください。最適な時間は、あらゆるものに静けさのある早朝です。そうすればすべての自然条件はあなたに有利に働くでしょう。夜の長い絶食の後、感情は鎮まり、前日の興奮や心配事は消え去り、精神は強くありながらも安らかであり、霊的な指導を受け入れやすくなっているでしょう。実際、あなたが最初になすよう要求される努力の一つは、無気力と怠け心を振り払うことであり、もしあなたがそれを拒むならば、前進することはできません。霊的に目覚めるということは、精神的にも肉体的にも目覚めるということであり、怠け者と自己中心的な者は、真理を知ることができません。健康で体力があるのに、静かな朝の穏やかで貴重な時間を、うたたねのようなことに浪費している者は、天国の高みに登るにはまったくの不適格者です。

目覚めた意識がその高遠な可能性に活気づき、世界を覆っている無知の闇を振り払い始めた者は、星々がその寝ずの番をやめる前に立ち上がり、自分の魂の闇と闘いながら、聖なる啓示によって、目覚めぬ世界が夢見る間に真理の光を知覚しようと努力します。
「偉大な者たちが到達し、維持している高みは
突然の飛翔で得られたのではありません。
仲間たちが眠っている間に
夜な夜な上を目指していたのです。」

早朝に起きなかった聖人、聖職者、真理の教師はいません。イエスは習慣的に早起きし、人里離れた山に登って霊的交流をされました。釈尊は日の出の1時間前に必ず起床して瞑想に入り、弟子たちも同じように瞑想するよう命じられていました。
もし、あなたが毎日の仕事を非常に早い時間に始めなければならず、そのために早朝に体系的な瞑想を行うことができないのであれば、夜に1時間だけ行うようにし、もし、これがあなたの毎日の長時間の仕事と難しさによって、無理だとしても、絶望する必要はありません。というのも、仕事の合間や、無為に過ごしているわずかな時間に、聖なる瞑想で思考を上向きにすることはできるからです。また、あなたの仕事が修練によってごく自然にできるようになる種類のものであれば、それに従事しながら瞑想することもできます。
あの高名なキリスト教の聖人であり哲学者でもあるヤコブ・ベーメは、靴職人として長時間働く中で、神に関する膨大な知識を身につけました。(訳注:ヤコブ・ベーメ(Jakob Böhme,1575年 – 1624年)は、ドイツの神秘主義者。主にドイツ語を用いて著述した最初の思想家でもあり、ヘーゲルはベーメを「ドイツ最初の哲学者」と称しました。対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現してゆくというヘーゲルの哲学はベーメの著述にその原形を有していると言えます。<ウイキペディアより>)
どんな人生にも考える時間はあり、最も忙しい人、最も仕事が大変な人も、大志や瞑想から締め出されることはありません。

霊的な瞑想と自己鍛錬は強く結びついています。それゆえ、あなたは自分自身を理解するために、自分自身について瞑想することになります。というのも、あなたがなさんとしている偉大な目的である真理の体現は、あなたのすべての誤りを完全に取り除くことであるからです。これを忘れないでください。あなたは自分の動機、考え、行動を疑い、自分の理想と比較し、冷静で公平な目でそれらを見るよう努力するようになります。このようにして、あなたは、これなしでは人は、人生という大海に浮かぶ無力な藁に過ぎないところの精神的、霊的なバランスを保ち続けることができるようになるのです。
もしあなたが憎しみや怒りに満ちていれば、自分の不快で愚かな行いを痛感するために、優しさと許しについて瞑想することです。そうすれば、あなたは愛と優しさと溢れるほどの許しの思いに浸り始めます。そして、高次のものによって低次のものが克服されるにつれて、徐々に、静かに、神の愛の法則の知識と、それが人生と行動のすべてに複雑に関係していることの理解があなたの心に染み入ってくるでしょう。さらに、この知識をあなたのすべての思考、言葉、行動に適用することで、あなたはますます優しく、より多くの愛、より多くの神聖さを増していくことでしょう。このようにして、あらゆる誤り、あらゆる利己的な欲望、あらゆる人間の弱点が、瞑想の力によって克服され、それぞれの罪、それぞれの誤りが心の中から押し出されると、真理の光が道を求める者の魂をより豊かに、より深く照らすようになるのです。

瞑想することで、あなたは唯一の真の敵である利己的で移ろいやすい自己から絶え間なく身を守り、真理と不可分である神聖で不変的な自己をますますしっかりと確立することになります。瞑想の直接的な成果は、穏やかな精神的な強さであり、それは人生の闘いにおけるあなたの滞在場所、休息場所となることでしょう。聖なる思考には偉大な克服力があり、瞑想の時に得た力と知識は、魂を豊かにし、争いの時、悲しみの時、誘惑の時の救いとなることでしょう。瞑想の力によって智慧が深まると、移り気で、刹那的な、悲しみや痛みを生じる利己的な欲望をますます捨て去るようになり、不動心と信頼感がますます強まって不変の原理の上に立ち、天国の平安を実現することができるようになります。
瞑想は永遠の原理の知識獲得であり、瞑想から得られる力はそれらの原理を絶対的に信頼する能力です。それによって永遠と一体になれるのです。したがって、瞑想の終着点は、真理、すなわち神を直接知ることであり、神聖に適った心の平安を実現することなのです。
瞑想するにあたっては、倫理的基盤を大事にしてください。地道な忍耐によって真理の面で成長することを忘れないでください。もしあなたが正統なクリスチャンなら、イエスの人格の汚れのない純粋さと神聖のすばらしさを絶えず瞑想し、イエスの完全さにますます近づくように、彼のあらゆる教訓をあなたの内的生活と外的行為に適用しなさい。真理を瞑想し、イエスから与えられた教訓を実践することを拒み、形式的な礼拝に満足し、特定の信条に固執して、罪と苦しみを絶えず続けるような人間になってはいけません。瞑想の力によって、宗派的な神々や信条へのあらゆる利己的な執着を超え、形骸化した儀式や無知を超えて上昇しようと努めなさい。このように、純粋な真理に心を向けて叡智の道を歩めば、真理の実現に至らないことはけっしてないことをあなたは知るでしょう。                                                        

真摯に瞑想する者は、はじめは真理を遠く離れたもののように感じますが、その後、日々の実践によって真理を実現していきます。真理を真に知ることができるのは、真理の言葉を実行する者だけです。なぜなら、純粋な思考によって真理は知覚されますが、それは実践によってのみ会得されるものであるからです。
仏陀は、「虚栄に身をゆだね、瞑想に身をゆだねない者は、人生の真の目的を忘れ、快楽に心を奪われて、やがて瞑想に励んだ者をうらやむであろう」と言い、弟子たちに次の「五大瞑想」を説きました。

最初の瞑想は愛の瞑想で、自分の心を整え、敵の幸せも含めて、すべての生き物の幸せと繁栄を願うようにします。 
第二の瞑想は憐れみの瞑想で、苦境にあるすべての生き物を思い、その悲しみや不安を鮮明に想像し、魂の中に深い同情心を呼び起こすものです。
第三の瞑想は喜びの瞑想で、他人の繁栄を思い、その喜びを共有することです。
第四の瞑想は不純な行為の瞑想で、堕落がもたらす悪い結果、罪や病気の影響について考えます。よくある快楽の瞬間がいかにつまらないものであり、その結果がいかに魂にとって致命的なものであるかを考えます。
第五の瞑想は静寂の瞑想で、愛と憎しみ、暴虐と抑制、富と欠乏を超越し、公平に、冷静に、穏やかな心で自らの運命を見定めます。

釈迦の弟子たちは、この瞑想によって、真理を知るに至りました。しかし、あなたの目的が真理である限り、また、あなたが聖なる心と潔白な人生という正義を強く望んでいる限り、これらの特別な五大瞑想そのものにこだわる必要はありません。瞑想においては、あらゆる憎しみ、激情、非難する心から解放され、思慮深い優しさで全宇宙を包み込むようになるまで、ますます大きな愛の思いであなたの心を成長させ拡げるようにしなさい。花が花びらを開いて朝の光を受け取るように、あなたも魂を輝かしい真理の光に向かってどんどん開いていきなさい。志の翼を広げて、高く舞い上がりなさい。恐れることなく、自らの高き可能性を信じなさい。絶対的に柔和な生活が可能であることを信じなさい。汚れなき純粋な生活が可能であることを信じなさい。完全に高貴な生活が可能であることを信じなさい。最高の真理の実現が可能であることを信じなさい。信じる者は天国の丘に速やかに駆け登り、信じない者は霧の立ち込めた暗い谷で痛々しく手探りし続けるのです。

信じ、志し、瞑想することで、あなたは神々しいまでに甘く美しい霊的な体験と、あなたの内なるビジョンの輝かしい実現の啓示を得ることでしょう。あなたが神の愛、神の正義、神の純粋さ、善の完全な法則、または神を実現するとき、あなたの至福は大きく、あなたの安らぎは深くなります。古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなります。誤りの目には濃くて見通すことができないが、真実の目には薄くて十分に見通すことのできる物質宇宙のベールが取り除かれ、霊的宇宙が明らかになるのです。時間は止まり、あなたは永遠の中にのみ生きることになります。変化と死は、もはやあなたに不安と悲しみを与えることはありません。というのも、あなたは不変性を得て、まさに不死の中心に住むことになるからです。

智慧の星
ヴィシュヌの誕生、
クリシュナ、仏陀、イエスの誕生を告げる星は、
天を仰ぎ、
夜の闇、真夜中の星のない暗闇の中で、
汝の輝きを待ち望んでいる賢者たちに告げた;
正義の王国の到来を告げる光り輝く使者;
情熱の厩舎の中、心と魂の飼い葉桶の中で、神聖が低く誕生する神秘的な物語の語り手;
悲しみを背負った心に、待ち疲れた魂へ深く聖なる慈悲を伝える沈黙の秘密の歌い手:
‐‐すべてを凌駕する輝きの星よ、
汝は再び真夜中を飾る;
汝は再び信条の闇の中で、誤りの信条の鋭き刃との果てしない戦いに疲れ果てた賢者たちを励ます;
形だけの死せる宗教の生気のない、役に立たない偶像にうんざりし;
汝の輝きを待ち続けた;
彼らの絶望を汝は終わらせ;
彼らの小径を汝は照らし;
汝は汝のすべての観察者の心に再び古の真理をもたらした;
汝を愛する者の魂に、汝は喜びと楽しみを、悲しみから来る平安の喜びを語る。

汝を見ることのできる、
夜の闇を彷徨う者たちは幸いである;
心の鼓動を、汝の輝きの偉大な力によってその胸にかき立てられた深い愛の脈動を感じる者たちは幸いである。

教訓を真に学ぼう;
忠実に、謙虚に学ぼう;
柔和に、賢明に、喜んで学ぼう、
聖なるヴィシュヌの古の星、
クリシュナ、ブッダ、イエスの光を。

第2章「二人の主君、自己と真理」はこちら

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