心の構造が3層あるいは4層構造なのは、物質的な肉体という霊体の乗り物を持たざるを得ないこの三次元世界に特有なことであり、あの世では心は2層になります。なぜなら、肉体がなくなると、まず表面意識が消え、その後、肉体と霊体の間にクッション材としてまとっていた幽体が剥がれ落ちて霊体のみとなるからです。(ちなみに、仏教の地獄絵図の説話や幽霊の目撃談などを読めば、不成仏霊や地獄霊は幽体をまとったままあの世で存在していると考えられます。)
この世の心の3層あるいは4層構造とあの世の2層構造を対比させれば次のようになります。

そして、当然のことですが、あの世では、この世における深層意識(個人的無意識)が前面に出てきて私たち自身の個性ある意識となります。
ところで、私たちがあの世とこの世を転生輪廻している事実に照らせば、もともとはあの世で有していた意識(個性)を持って、特定の地域環境と時代環境を選んでこの世に生を受け、人生のゼロからの出発をなすわけですが、この世では肉体に伴う表面意識が前面に出てくるがゆえに、あの世から持ち来った意識はその奥に隠されて深層意識となります。そして、成長の過程において人それぞれに家庭環境、教育環境、職場環境、社会環境から受けたさまざまな情報(一種の暗示)や、それらに対する表面意識の反応が深層意識に書き加えられていきます。特に物心つくまでのそれらの影響はほぼ100%受け身ですからかなり強く深層意識に刻まれることになります。しかも表面意識の記憶にはないでしょうから、普段はほとんど意識することはないはずです。私たちはこの二つの意識、表面意識と深層意識でもって定められた寿命の人生を送り、その過程で新たに得た知識と経験を深層意識に蓄えてあの世に戻るということです。
そして、この持ち帰った深層意識があの世での私たちの新たな個性となります。転生輪廻を繰り返すほどに新たな知識と経験が増えていきますので、その結果、霊的な魂としての進化が図られることになります。こういう仕組みを神は創っておられるということです。万一、今回の人生で失敗し、死んで地獄に堕ちることがあったとしても、永遠の生命という長い目で見れば、それも魂の進化の糧となる貴重な経験の一つと見なすことができます。このような生き方をすれば、地獄に堕ちるという新たな知恵が得られたということになるからです。
このような事実を知れば、深層意識の中身をいかに肯定的で素晴らしいもので満たすかが一大事であることがよく分かります。意識あるいは思考は一種の波動であり、あの世では波長同通の法則により、波動に応じた世界に移行し、そこで次の転生までの間過ごすことになるからです。真の自己実現の基本である肯定的思念を持ち続けることが、この世の人生の幸福につながるとともに、あの世での生存の幸福にもつながるということです。この世では、表面意識(建前)で深層意識(本音)をカモフラージュすることが可能ですが、あの世に表面意識は持っては帰れませんので、この世にいる内に、深層意識を善き思いで満たさなければあの世で大変な目に遭いかねません。実際、原則として死後49日が経った時点であの世の裁判官(日本では一般的に閻魔として知られている高級霊)によって、天国行きか地獄行きかが判定されることになっています。その際の判断基準は、生きているときの善悪の思いと行為の割合で、0.1%でも善の方が多ければ天国行きとなります。なぜ、わずか0.1%の差で厳然と天国と地獄に分かれるのかといえば、これには相対的世界の成り立ちが関わっています。
相対的世界が成立するには光と闇、正と負、陽と陰、善と悪といった二つの極が必要であり、しかも、その二つの極の強さは拮抗するものでなければなりません。そうでなければ、どちらかにバイアスがかかってしまい神が人間に与えられた100%の思いの自由性が保証されないからと推測されます。また、別の視点で見れば、光の不在が闇であることから光に見合っただけ闇もあるということです。
自分がこの世から持ち帰った深層意識が、そのままあの世での私たちの意識となり個性となること、また、この持ち帰った深層意識の中身(波動)があの世の行き先を決めることを理解して、本能に溺れ、自我我欲にまみれた人生を送らぬよう、心を正しく制御することが何より肝要であるといえます。