私たちの心には、これが自分だと思っている表面意識と、自分でも意外と自覚していない深層意識の二つがありますが、実はそれだけではありません。深層意識のさらに奥には潜在意識と呼ばれるものが存在しています。これを含めると心は3層構造になっていると見ることができます。肉体人間の心は3層構造なのです。
精神科医でもあり心理学者でもあるスイスのカール・グスタフ・ユング(1875~1961)も心の構造を3層でとらえ、各層を「意識」、「個人的無意識」、「集合的無意識」と名付けていますが、「個人的無意識」とは個人的ということですから私たち一人一人の深層意識であると理解することができます。また、「集合的」とは個人を合わせた全体を意味することから、「集合的無意識」とはすべての個人を包含した存在、すなわち、普遍的で絶対的存在である神の意識であると理解できます。
一方で、トーマス・トロワード(1847~1916)や、ジョセフ・マーフィー博士(1898~1981)などの著書では心は2層構造でとらえられています。それは「Objetive mind(客観的な心・客観的精神・客観的意識)」と「Subjective mind(主観的な心・主観的精神・主観的意識)」、あるいは「Conscious mind(意識的な心・顕在意識)」と「Subconscious mind(潜在意識)」の二つです。お二方それぞれの著書から引用すれば次のとおりです。
「催眠術の科学が明らかにした偉大なる真実は、人間の心の二面性です。この二面性については、一人の人間の中に実際には別々の二つの心が存在することによるものなのか、それとも同じ心が二つの異なる機能を果たすことによるものなのか、様々な識者の間で意見が分かれています。しかし、このような意見の対立は、真理を明らかにする上で非常に多くの妨げの原因となる、“違いのない区別”なるものの一つにすぎません。人間が人間であるためには、単一の個性でなければなりません。したがって、人間のさまざまな精神的作用を、単一の個性が持つ二つの心から生じていると考えても、あるいは一つの心が二つの機能を持っていると考えても、結果は同じなのです。私たちは一人の人間を扱っているのであり、心の働きをどのように描くかは、どのような絵がその働きの性質を最もはっきりと私たちに教えてくれるかという問題にすぎません。それゆえ、便宜上、この講義では、この二面的な心の働きが、外と内の二つの心から生じているかのように話すことにします。内なる心を主観的な心(主観的精神)、外なる心を客観的な心(客観的精神)と呼ぶことにしますが、この名称による区分はこの分野についての文献で最も頻繁に使われているものです。」<『The Edinburgh Lectures on Mental Science』Chapter 4 – Subjective and Objective mindの私訳より>
「あなたの心は一つですが、しかしその心は二つのはっきりと別な特徴を持っています。この二つを分つ境界線は、今日では男女を問わず考えている人には、みんなによく知られています。あなたの心の二つの機能は本質的に違ったものです。それぞれが別の違った属性と力をもっています。この心の二つの機能を区別するために普通用いられている呼び方には次のようなものがあります。客観的精神と主観的精神、意識と潜在意識、醒めている心と眠っている心、表面的自己と深層的自己、随意的精神と不随意的精神、男性的なるものと女性的なるもの、など、その他いろいろあります。この本では、心の二重的性質を示すために、「意識的」と「潜在意識的」という術語を使うことにします。」<『眠りながら成功する』第一章 自分の中にある宝庫(p.17)より>
客観的な心あるいは意識的な心(顕在意識)とは神から創られた相対的な存在である人間一人一人の心のことであり、主観的な心あるいは潜在意識とは普遍的で絶対的な存在であり、創造主である神の心を意味しています。そして、この2層構造を基にトーマス・トロワードは精神科学に関するさまざまな哲学的な論述をなし、マーフィー博士は潜在意識の働きを大変分かりやすく解説し、潜在意識の活用による問題解決や人生好転の事例を数多く紹介しています。ちなみに、マーフィー博士が最終的に採用した2層構造(「意識的」と「潜在意識的」)では個人的無意識である深層意識が潜在意識に含まれる点に注意が必要です。
ところで、この心の3層構造と2層構造は決して矛盾するものではありません。その理由は「客観的な心」とは個人に関わるものであることから、「表面意識」と「深層意識」を合わせたものであり、「主観的な心」とは心の3層構造の最奥部の潜在意識のことであるといえるからです。以上の説明を表で示めすと次のようになります。

この心の構造を表ではなく図で示せば次のようになります。

心の中核にある潜在意識(集合的無意識)あるいは主観的な心を仏教的には真我あるいは仏性といいます。また、客観的な心は自我とも呼ばれますが、この心を神の心と調和させることが魂修行の目的であり、調和のレベルが上がれば上がるほど私たちの心の波動は精妙になっていきます。そして、私心を滅することができた状態が安心立命の無我の境地といわれるものです。
では、ここで、なぜ私たちに客観的な心(人間の心)と主観的な心(神の心)の二つが内在しているのかということについて述べておきたいと思います。最初に、神の心が内在している理由を明かせば、それは人間が神の光でできているからです。神の光はたとえ一粒でもそれは神そのものです。なぜなら、神は無限の存在だからです。無限の2分の1は無限であり、無限の1万分の1も無限であり、無限の1億分の1も無限だからです。100億人の人間がいるとして一人分の神の光が神全体の100億分の1なんてことはあり得ないのです。それゆえ、人間には神の心そのものが内在しているのです。次に、なぜ人間に神の心とは異なる人間の心があるのかといえば、もしそれがなければ、人間には神の心しかないことになり、人間は神とまったく同じになってしまうからです。それでは、わざわざ人間を創る意味がありません。それゆえ、人間には神の心とは別に人間の心があるのです。そして、人間は唯一無二の存在ではなく複数存在し、しかも、それぞれが何を思うも自由という100%の思いの自由性を持っています。これにより、人間の心は一人一人異なったものとなります。神はこの多様な人間の思いを、善なるものも悪なるものもそのまま現象化することで、自分のみではけっして得られない自己表現をなしておられるということです。
ちなみに、神が無限なのは、唯一無二の存在であるからです。もし、神が有限であるとすると、神が自と他を分ける境界面を持つことになり、唯一無二ではなくなってしまい、矛盾が生じます。宇宙が現れる前に存在していたのは神のみであることから、神は唯一無二の存在であり、唯一無二であるがゆえに神は無限の存在であるということです。また、神は他の何ものにも依存することなく存在していますので、絶対的存在でもあります。これに対して、人間は複数存在することから無限ではなく有限であり、神の「人間よ在れ」という思念なくしては存在することができないので絶対的存在ではなく相対的存在です。
次に、心に関する理解をさらに深めるために「心の4層構造」と「あの世の心の構造」および「表面意識の役割」についても言及しておきたいと思います。