5-4-2-11.第11章「羊飼いと石」

羊飼いと羊の比喩は聖書全体でつねに出てきて、当然のことながら、個々の羊と群れ全体の両方を導き、守り、給餌するということを示唆しており、これらの事柄の霊的な対応関係を一般的に理解することは難しくはありません。しかし、聖書は羊飼いの比喩ともう一つ別の「石」の比喩を組み合わせており、一見したところ、この 2 つはかなり矛盾しているように見えます。

「そこから羊飼い、イスラエル(ユダヤ)の石が生まれた」と旧約聖書(創世記 49 章 24 節)には書かれており、イエスは自らを「善い羊飼い」であると同時に「建設者たち(ユダヤの指導者)が拒否した石」であると呼んでいます。このことから羊飼いと石とは同一の概念であり、私たちはこの2つの概念の組み合わせが何を意味するのか探究しなければなりません。羊飼いは、羊を幸福にするための世話人・導き手であり、羊よりも優れた知性を示唆しています。石は建物の概念、すなわち測量、各パーツの全体への適合、計画に沿って進捗する建設を示唆しています。これら 2 つの概念を組み合わせると、石とは人のことであり、一人ひとりが建設において多かれ少なかれ意識的な役割を果たしている建物、すなわち外側から建設されるのではなく、内側から、全体に浸透し、最終的な完成に向けて段階ごとに指揮する至高の智慧の導きの下で、成長の原理によって自己形成されつつある建物の建設というアイデアが得られます。​これは、私たちが個人と人類全体の両面で多かれ少なかれ意識的に協力することのできる人類の進化という偉大な計画促進における神の理を示しています。その最終的な目的は、私がすでに言及した「オクターブ」の原理をすべての人間の内に確立することです。この原理の一端が個人やその集団によって認識されるのに比例して、たとえその事実に気づいていなくても、彼らは人類の発展の法を特殊化するようになり、基本的法則の特殊化された働きの下に置かれることになります。かくして、この基本的法則は彼らを特別に導き、単に一般的な法則の運用では不可能なより高度な発展をもたらすことによって、他の個人や他国の人たちとの違いを生み出すことになります。

究極の目的、あるいは傾向性の法則、あるいは起源となる精神(神)は、その本質においてつねに普遍的なものでなければなりません。しかし、その作用においては必然的に個別的なものでなければならないことを私たちがつねに認識するならば、その普遍的な目的は、特定の手段を媒介するものを通してのみ達成されることがわかるでしょう。これは、普遍なるものは個別的かつ特殊的になることによってのみ、特殊的な次元で働くことができるという基本的な命題から生じます。そして創造の法則の単なる一般的な働きが、今や人類を可能な限りの高みまで、つまり、単なる自然な種としての人類を平均の法則によって最高度に進化させたという概念を理解すれば、さらなる発展は個である本人の神への協力によってのみ可能ということになります。神が私たちに求めているのは、この個の協力の広がりであり、手を使わずに切り出された石が全地を満たすまで広がるというダニエルの預言で言及されているのは、この普遍的な原理が徐々に広がっていくことなのです(ダニエル書2章34節と44節)。ダニエルの解釈によると、この石は霊的な王国の象徴であり、石と羊飼いの同一性は、石の王国が羊飼いの王国でもあるに違いないことを示しています。そして、自分を石と羊飼いの両方と同一視する師は、この王国は本質的には内なる王国である、つまり「天国はあなたの内にある」と強調したのです。したがって、私たちは、すべての人に内在しながらも、その本質的な要求がより正確に満たされることによって、より完全な発展が成し遂げられるのを待っている霊的原理や精神的法則にその基礎を求めなければなりません。それはまさに、科学が自然の法則から、かつての時代には夢にも思わなかった力を呼び起こす方法なのです。同様に、すべての個体の存在の源である普遍的精神と私たちの真の関係を認識することは、現在の私たちにはほとんど想像もつかないような、しかし直感を通しておぼろげに理解し新秩序と呼んでいる、人類と個人の両方にとっての進歩につながるに違いありません。この新秩序の接近はあらゆるところで漠然と感じられています。フランス人が言うように、それは空中に漂っており、それにまつわる曖昧さと謎が、それがどのような形をとるかについての不安感を引き起こしています。しかし、霊的な法則を学ぶ者は、そうではないはずです。形とはつねに目に見えぬ精神(神)の表現であり、それゆえ精神(神)の思念の方向性を理解している彼は、大いなる精神(神)の思念が取るかもしれない発展のどのような形にも、自分自身がつねに調和的に含まれることを知っています。これは、羊飼いと石という二重の比喩の下で象徴される原理の認識から生じる実際的かつ個人的な利益です。そして、おそらく現在でさえも測定可能な距離内にあるすべての新しい発展において、私たちは親切な羊飼いの世話の下にあり、賢明なマスター・ビルダーの形成の下にあるという知識に安住することができます。

しかし、羊飼いと石の原理は、未来にのみ存在するようになる前代未聞のものではありません。もし過去にこの原理が現れなかったとしたら、そもそもそのような原理が存在したのかどうか疑問に思うかもしれません。しかし、このテーマを注意深く研究すると、それがいつの時代もずっと機能しており、片方はつねにもう一方を暗示しますが、時には羊飼いの側面をより直接的に帯びたモードで、また時には石の側面をより直接的に帯びたモードで機能してきたことがわかります。というのも、両者は異なる視点から見た同じものであるからです。この主題は非常に興味深いものの一つですが、しかし、非常に広範囲なものなので、ここで私ができることは、このような研究分野が存在し、探究する価値があることを指摘することだけです。この探究は、過去の歴史への鍵をもたらしてくれるだけでなく、それが未来の歴史への鍵でもあることを示してくれ、さらには、私たちが協力すれば個人の進化のプロセスが促進される同じ霊的法則の原理の働きを大いに明らかにしてくれます。かくして、それは人生に強い明確な関心を抱かせ、私たちに期待に値するものを与え、いわゆる人生70年に制限されない個人的な未来をもたらしてくれます。

さて、創造的なプロセスの最初の段階はつねに感情、つまり精神による特定の方向への働きかけであることがわかりました。したがって、私たちは現在熟考中の偉大な原理の発展においても同種のものを探すことになります。そして、この偉大な原理の最初の漠然とした動きは、太古の昔から、羊や家畜の群れとともに放浪する遊牧民であり、石碑に宗教的信念を象徴させるという2つの特徴を兼ね備えていたと思われる特定の人種の直感の中に見出されます。石碑自体は国や時代によってさまざまな形をとっていますが、その象徴性の同一性は注意深く調査することで明らかになります。この象徴性とともに、建設者たちの遊牧民的な性格や、たとえインドやアイルランドのように遠く離れた国であっても、建設者たちが他では見られないような神秘的でロマンチックなオーラを帯びていることがつねに認められます。そして、単なる石碑的な段階を過ぎると、この人種のさまざまな系統を結びつける歴史的証拠の糸が見つかり、進むにつれてその複雑さが増し、累積的な力が強化され、ついには私たちが生きている時代の人類の歴史に至ります。そして最後に、最も注目すべき言語の類似性が、これらすべての異なる線上で収集できる大量の証拠に終止符を打ちます。この魔法円の儀式を持つ国々では、アイルランドとギリシャ、エジプトとインド、パレスチナとペルシャなど、互いに遠く離れた国々が緊密な隣接関係に置かれます。大ピラミッドの謎めいた建造者たちと、アイルランドの円塔の同じく謎めいた建造者たちは、同じような伝承、そして同じようなノーメンカルチャー(分類上の命名法・術語体系)で結ばれています。大ピラミッドそのものは、おそらくアブラハムの召喚よりも古く、1782年アメリカの公式印として再登場します。一方、伝承によれば、ウェストミンスター寺院の戴冠石はソロモン神殿の時代、さらにはそれ以前にまで遡ります。ほとんどの場合、以前放浪していた人々は今では然るべきところに定住していますが、アングロサクソン人種、つまりコーナーストーン(重要な地域)の住人は依然として国々の中での開拓者であり、北極に到達したとき、そこにはスコットランド人がいるという古いジョークには、深遠な何かがあります。そして、その証拠の連鎖の中でとりわけ重要なのは、今なお放浪を続ける民族、一組のカード(トランプ)の中に“ピラミッド”の複製を持つジプシーがもたらすつながりです。このカードは、その誤用と倒置(倒錯・否定)だけを知っている人々から「悪魔の絵本」と呼ばれていますが、しかし、それは私たちが現在得ている知識に照らして解釈すると、聖パウロが言うように、神が賢者をやり込めるためにこの世の子供じみたものを用いるという、神の方針の顕著な例を示しています。一方、ジプシーそのものをより正しく理解すれば、彼らが、そのすべての放浪を通して石の守護者であったあの人種と、まぎれもなくつながっていることがわかります。

この数段落で、私は英国と米国の国民にとって国家的重要性を持つテーマであり、そして、これらの国の一員としてだけでなく、私たち一人ひとりが自分自身のために個別に実行しなければならない普遍的法則の特殊化を最大規模で証明するものとして私たち個人にとっても関心のあるテーマについて、広範な研究の大筋をごく簡単に指摘し得たに過ぎません。しかし、そのプロセスが個人的なものであれ国家的なものであれ、それはつねに同じであり、「自然は、私たちがまず自然に従うのに正確に比例して、私たちに従う」という古い格言の、最も高い次元、つまりすべての根源である生命そのものの次元への翻訳です。それは、家来たちが帯を締めて自分を待っているのを見た主人が、自分も帯を締めて彼らに仕えるという古いたとえ話(ルカ12章35~37節)で語られていることです。こうして羊飼いと石の真の原理を認識した国家や個人は、普遍的な法の概念とは相容れない偏愛(依怙贔屓)によってではなく、法の作用そのものによって、特別な神の導きと保護の下に置かれます。彼らはそのより高い可能性に触れ、私がすでに用いた例えに戻ると、鉄が沈むのとまったく同じ原理によって鉄を浮かせることを学びます。こうして彼らは偉大な羊飼いの群れとなり、偉大な建築家の建物となり、それぞれが自分の領域がどれほど取るに足らないものに見えても、偉大な仕事の共有者となり、論理的な帰結によって、新しい原理は必然的に新しい発現様式を生み出すという単純な理由から新たな線上で成長し始めるのです。もし読者がこれらのことをよく考えてみるならば、国家的であれ個人的であれ、聖書に含まれる約束は、私たちの存在の最も奥深い原理に適用される普遍的な原因と結果の法則の記述にほかならないこと、そしてそれは単なる狂詩曲ではなく、讃美歌作者が「主は私の羊飼いである」、「あなたは私の神であり、私の救いの岩である」と言うときの偉大な真理の比喩的な表現であることが分かるでしょう。

第12章「救いはユダヤ人から来る」はこちら

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