5-4-2-10.第10章「イシの崇拝」

ホセア書ⅱの16章には、次のような注目すべき言葉があります。「そして、その日には、あなたは私をイシと呼び、もはや私をバーリとは呼ばない、と主は言われます」。これに、イザヤ書 112章の4の記述を重ね合わせることができます。「あなたはヘプジバと呼ばれ、あなたの土地はビューラと呼ばれるでしょう。主はあなたを喜ばれ、あなたの土地は結婚させられるからです。」

これらの両方の文章に名前の変更が見られます。そして、名前はそれに対応する何かを表し、実際には簡潔な説明にすぎないため、これらの文章で示されている事実は、名前の変更に対応する状態の変化です。

さて、バーリからイシへの呼び名の変化は、神聖な存在とその崇拝者との関係における重要な変化を示しています。しかし、神聖な存在は変わることがあり得ませんので、変化した関係は崇拝者の立場の変化から生じるものに違いありません。そしてこれは神に対する新しい見方、つまり、神に関する新しい思考秩序からのみもたらされます。バーリは主人を意味し、イシは夫を意味するため、この関係の変化は、解放されて前の主人と結婚した女性奴隷の変化です。これ以上に完璧な例えはありません。私が「聖書の謎と聖書の意味」で指摘したように、宇宙の普遍的精神と比較すると、私たち個々の魂は秘儀的に女性的です。なぜなら、その機能は受容的であり、被形成的であるからです。これは創造的なプロセスの性質に必然的に備わっています。しかし、普遍的精神の特殊化の媒体としての個人の発展は、完全に普遍的精神との関係についての彼自身の概念に依存します。彼がそれを恣意的な権力、一種の奴隷所有者としてのみ見なしている限り、彼は自分自身が不可解な力によって動かされている奴隷の立場にあります。彼はそれがどこにあるのか、何の目的があるのか知りません。彼はそのような神を崇拝するかもしれませんが、彼の崇拝は恐怖と無知の崇拝にすぎず、何らかの恐ろしい罰を逃れること以外には個人的な関心はありません。そのような崇拝者は喜んで彼の神性から逃れるでしょうし、分析すると、彼の崇拝は偽装された憎しみ以外の何物でもないことがわかります。これは、明瞭な原理ではなく、説明のつかない伝統に基づいた崇拝の自然な結果であり、イエスが真の崇拝として語る、精神と真理による崇拝【訳注:ヨハネの福音書4章24節参照】とは正反対のものです。

しかし、光が私たちに差し込み始めると、すべてが変わります。私たちは、テロリズムが神霊を表現することはできないことを理解し、聖パウロの言葉「神は私たちに恐怖の精神ではなく、力と愛と健全な精神を与えてくださった」の真理を悟ります。個人の心と普遍的な心との関係の本質が明らかになるにつれ、それが相互的な作用と反作用の一つであり、最もわかりやすく例えれば、愛情深い夫と妻の関係に象徴される完璧な相互関係であることがわかります。すべては愛によって行われ、強制によるものは何もありません。双方に完璧な信頼があり、両者は等しく互いにとって不可欠な存在です。それは単純に、普遍なるもの(絶対的存在)は特定のもの(相対的存在)を通さない限り特定の平面上(相対的領域)で作用することはできないという基本的な法則を実行するものです。この哲学的公理だけが、温かい生きた霊的交流へと発展します。

さて、これがヘプジバという名前によって示される魂の立ち位置です。セム語の語根「hafz」から派生した他のすべての単語と共通して、それは守るという概念を暗示しています。ちょうど東洋でハスフィズとはコーランの全文を暗記することでその文字を守る人のことであり、同様の表現は数多くあります。したがって、ヘプジバは「守られた者」と訳され、新約聖書にある「救われるように守られている」人々の記述を思い出させます。優れた力によって守られているというこの概念こそが、イシの崇拝とバーリの崇拝を区別するものです。神聖な霊と個人の魂の間には、絶対的な信頼と個人的な交流という特別な関係が確立されています。これは、普遍的な一般的法則からの逸脱を必要とするものではなく、私が前に話した、個々人の特別な条件の提示による法則の特別化によるものです。しかし、いつの時代も普遍的精神には変化はなく、唯一の変化は個人の精神的態度にありました。個人は新たな考えを持ち、神についてより明確な認識を抱くようになりました。彼は「神とは何か」「神はどこにいるのか」「神はどのように働くのか」という問いに直面してきました。そして彼は、神が「すべての上にあり、すべてを通して、そしてすべての中にある」という使徒の言葉の中に答えを見つけ、「神」が彼自身(個人)の存在の根源であり、つねに彼の中に存在し、つねに彼を通して働き、彼の周りに普遍的に存在していることを認識します。

普遍的精神と個人の心との間の真の関係のこの認識は、両者が分離することをやめて一つになった神秘的な結婚として秘儀的に語られるものです。実際のところ、両者はつねに一つだったのですが、私たちは自分の意識の観点からしか物事を理解できないので、私たちにとっての実際的な現実は私たちの事実認識次第なのです。しかし、知的な認識力は、全体を構成する 2 つの部分を混同することは決してありませんし、個人が無目的な力を扱っている、あるいは無目的な力が自分を扱っていると考えるように導くこともありません。彼は神を王座から追放することも、神に吸収されて自分自身を無くすこともなく、神と人間の相互関係を創造プロセスの本質的条件の自然かつ論理的な結果として認識します。

そして、そのようにして創造される全体とは何でしょうか。それは私たちの意識的な個性です。したがって、普遍的精神から私たちが引き出すものはすべて、私たちの個性となります。それは、私がこれまで何度も話してきた普遍的なものから特殊なものへの分化のプロセスであり、粗雑な例えで言えば、適切な装置を通過することによって普遍的な電気の流れが特定の種類の力に分化することに喩えることができるでしょう。この理由から、私たちに対して普遍的精神は必然的に個人的な側面を帯びることになり、それが帯びる個人的側面は私たち自身の普遍的精神に対する概念と正確に一致することになります。これは私たち自身の存在に固有の精神的および霊的な法則に従っており、聖書が私たちをあらゆる悪の恐怖から解放し、穏やかで安らかな心の視点から、私たちの思考の持つ創造的な力を肯定的に使用し得る神概念を構築させようとしているのはこのためです。この立場は、現時点で起こっている出来事の範囲を越える【訳注:この世的事象にとらわれない】ことによってのみ到達することができ、これはすべての善の未分化の源と私たちの直接の関係を発見することによってのみ達成できます。私が「直接的」と「未分化」という言葉を強調するのは、そこに全体の立場の秘密が含まれているからです。もし私たちが普遍的精神から直に引き出すことができなければ、私たちが受け取るものは、それが私たちに届く経路の制限を受けることになります。 そして、もし私たちが受け取る力がそれ自体未分化のものでないとしたら、それは私たち自身の心の中で適切な形をとることはできず、私たち一人一人にとってまさに私たちが求めるものになることはできません。

私たちが見落としがちなのが、無限から無制限に分化する人間の魂のこの力ですが、魂自体が無限の精神(神)の反映でありイメージであるとの理解に至れば(宇宙の創造プロセスの明確な認識は魂がそれ以外のものではあり得ないことを示しています)、私たちは、魂がこの力を持っているに違いないことに気づきます。実際、この力を私たちが所有していることが、創造的プロセスの全存在意義であるのです。もし人間の魂が無限のものから分化する無限の力を持っていなければ、そのとき無限はその中に反映されず、その結果、無限の精神(神)は自分自身を生命、愛、そして美であると意識的に認識するための出口を見つけることができないでしょう。私たちは、精神とは “自分自身を知る力”である、という古くからの秘教的定義について、深く考えすぎるということはありません。過去、現在、未来のすべての物事の秘密は、このわずかな言葉の中に含まれています。精神(神)の自己認識または自己観想は、すべての創造がそこから生じる第一の動きであり、自己認識のための新鮮な中心となる個人の獲得が精神(神)が創造の過程で得るものです。精神(神)にもたらされるこの利益は、主人がその召使いたちから増えた利益を受け取る説話として描写されています。個人が自分と無限の精神(神)との間のこの関係を認識すると、自分が奴隷の立場から相互利益の立場に引き上げられたことに気づきます。個人が精神(神)なしでは何もできないのと同じように、精神(神)も個人なしでは何もできないのです。両者は、電池の 2 つの極と同じように相互に必要なのです。精神は、愛、智慧、力の無限の本質であり、未分化のこの 3 つすべてが、分化の経路である個人の求めによって割り当てられ分化されるのを待っています。分化するには、存在の法則によって必ず答えが得られるという認識を持って要求するだけでよく、そうすれば、私たちの特定の問題に対する正しい感覚、正しい見方、正しい作業がごく自然に流れ込んできます。私たちの宿敵である疑いと恐怖は、私たちをバーリの束縛下に戻そうとするかもしれませんが、すべての根源である精神(神)が私たち自身と完全に一体化していると認識する私たちの新しい観点は、つねに断固として念頭に留め置かねばなりません。というのも、これなしでは、私たちは創造的なレベルで働けないからです。実際は、私たちは創造力をけっして放棄することはできないので、創造してはいますが、それは古い制限的で破壊的な状況をイメージして創造しているだけであり、個人が超えなければならない宇宙の平均の法則を単に永続させているだけです。創造的なレベルとは、新法則が条件の新秩序として現れ始める場所であり、過去の経験を超越する何かが、真の進歩をもたらす場所です。というのも、同じ古いやり方をつづけるだけでは、たとえ何世紀にもわたってつづけたとしても進歩とは言えないからです。今日の世界を翼竜や魚竜の世界よりも進歩させたのは、精神(神)の着実な前進性であり、私たちは私たちの中の新たな出発点から精神(神)の同じ前進を求めなければなりません。

さて、イシとヘプジバという名前に象徴されるのは、私たちに対する神の特別で個人的な関係です。この観点から、個人(へプジバ)が神(イシ)との一体感に目覚めると、神も同じことに目覚めるといえます。神は個人の意識を通じてそれ自身を意識するようになり、したがって普遍的精神(神)による個の自己認識のパラドックスが解決されます。それなしでは新しい創造力は行使できず、すべてのものが古い単なる宇宙秩序の中で進行しつづけることでしょう。もちろん、「父(神)が知る」ことなくして一羽の雀も地に落ちることはないとイエスが言われたように、単なる一般的な秩序においても、神があらゆる形の生命に存在しなければならないのは事実です。しかし、「スズメは撃たれ、かなりの数のスズメがそのような運命をたどったことを示す価格で売られていた」というイエスのほのめかしに、私たちは、個としての自己認識に目覚めず、一般的あるいは種としての低い自己認識に留まっている状態における精神の顕現態様を正確に見ます。「あなたがたは多くのスズメよりも価値がある」という師のコメントは、この違いを指摘しています。今、私たちの中において一般的な創造は、神が個人の中での自己認識に目覚めるための条件を提供するレベルに達しています。

そして、これらすべては完全に自然なことであることを心に留めておかなければなりません。それに対してポーズを取ったり、力んだりする必要はありません。もし、あなたが生命を高めなければならないとしたら、誰があなたの中に生命を注入してそれを高めるのでしょうか。したがって、それは自然発生的なものであるか、あるいは何もないかのどちらかです。だからこそ、聖書はそれを神の無償の贈り物と語っているのです。それ以外の何ものでもあり得ません。あなたは根源的な力を生み出すことはできません。根源的な力があなたを生み出したのです。あなたができることはそれを広げることだけです。困難を感じたときはすぐに、どこかに間違いがあると考えてください。そして、神はけっして変わることがありませんので、困難はあなた自身の考え方の誤りによって引き起こされていると確言できます。つまり、あなたが何らかの方法で精神(神)に制限をかけているということです。それが何なのかを見つけるために取り組んでください。これに取り組むのはつねに精神(神)に制限をかけている側、すなわちあなたです。あなたがそれをどこかの条件に縛りつけ、ある既存のものによって縛られていると言っているのです。その解決策は、宇宙創造の本来の出発点に戻って、「精神(神)に命令した既存の形態はいったいどこにあるというのか」と尋ねることです。精神(神)は決して変わることはありません。それは依然として同じであり、最初と同じように今も既存の条件から独立しています。したがって、私たちは、たとえ明らかに不利であっても、すべての既存の条件を乗り越えて、新しい形態と新しい条件の創始者としての精神(神)のもとへ真っ直ぐに行かなければなりません。これが本当の新思想です。なぜなら、それは古いことを気にせず、私たちが今いる場所からまっすぐに前進しているからです。これを行うとき、ただ精神(神)を信頼し、精神(神)の働きの具体的な詳細を定めず、どうすればそれを手に入れることができるかを指図することなく、ただ私たちが望んでいることを精神(神)に伝えるだけで、物事がますます内側と外側の両方の面で日々明確に開けていくことが分かるでしょう。精神(神)が命を持ち、ここで今働いているということを忘れないでください。なぜなら、精神(神)が過去から未来に行くとしたら、それは現在を通過する必要があるからです。したがって、あなたがしなければならないことは、ここで今、精神(神)から直接導かれて生きる習慣を身につけることです。これは個人的な霊的交流の問題であり、完全に自然で、これをなすのに不自然な条件など必要としないことがすぐにわかります。あなたは、(テニスンが「手や足より近くにある」と言うように)精神(神)がつねにそこにあることを思い出しながら、精神(神)を他の心優しい分別のある人と同じように扱うだけです。あなたは、その互恵性が実際に非常に現実的な事実であることを徐々に理解し始めることでしょう。

これがヘプジバのイシとの関係であり、「霊による礼拝(個人的、精神的レベルで神と関わること)」であり、実際にこれをなすのにエルサレムの神殿もまたサマリアの神殿も必要としません。なぜなら、全世界が精神(神)の神殿であり、あなた自身がその聖域であるからです。これを心に留めて、精神(神)の認識と働きにとって、大きすぎることも小さすぎることも、内的すぎることも外的すぎることもないことを覚えておいてください。なぜなら、精神(神)はそれ自体が万物の生命であり実体であり、それはまた、あなた自身の個性という観点からの自己認識でもあるからです。それゆえ、精神(神)の自己認識が創造的プロセスの生命であるため、あなたは、精神(神)がその性質に従って働くことを単に信頼するだけで、次のように言われる神の思考から生じる新しい秩序にますます完全に移行していくことでしょう。「見よ、わたしはすべてのものを新しくする。」

第11章「羊飼いと石」はこちら

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