エデンの物語の中に聖書全体と、過去、現在、未来の世界の歴史全体の萌芽が含まれています。なぜなら、それらは、そこで寓意的に述べられている、ある偉大な原理原則の展開に他ならないからです。これが決して新しい見解でないことは、オリゲネスの次の言葉を見ればわかります。「神が農夫のようにエデンの園に木を植え、その中に、食べる者に命を与えるという、目と感覚で容易に知覚できる命の木と、食べる者に善悪の知識を与えるというもう1本の木を植えたということを本当のことだと信じるほど愚かで常識のない者がいるだろうか。私は、誰もがこれらを、深遠な意味が隠されている寓話と見做すに違いないと信じている。」では、この古代キリスト教の教父の示唆に従って、この2本の木の描写に隠された「深遠な意味」とは何かを調べてみましょう。この物語の表面には 二つの柱があり、一つは生、もう一つは死であり、この二つの基本的な原理が正反対の結果をもたらします。後者の特徴は、善と悪という拮抗する二つの原理を認識することであり、私たちが生きていくことを可能にするためには、両者の関係についての知識を必要とするというものです。さて、一見するとこれは非常にもっともなことのように思えます。それは非常に妥当なことであるように思えますので、私たちにはこの考えの究極の破壊性が分かりません。 そして、イブは「その木が目に心地よく映った」のでその実を食べたと言われているのですが、しかし、注意深く考えれば、この原理の破壊的な性質がどのようなものであるかがわかります。その原理は、善は悪によって制限されており、その悪を認識し、それに打ち克ち、排除しないかぎり善を得ることはできないという誤った考えに基づいています。この考えでは、人生は考え得るあらゆる形態の悪との継続的な戦いとなり、考え得るすべての悪の出来事に対する予防策を考案するために脳を絞りつくした後でも、私たちは決して否定的な可能性のすべてに対処し尽くしたわけでもなく、また、私たちがどんなに先見の明を持っていたとしても想像できなかったような他の否定的な可能性が生じる機会が残っています。私たちがこの誤った考え方をすればするほど、それはますます耐え難いものになります。なぜなら、この考え方からは、私たちは行動のための確かな基盤を決して得ることができず、悪の力は、私たちがその可能性を熟考すればするほど増大するからです。すべての悪をその性質に関する私たちの知識によって打ち破ろうとすることは、それを真理の目で見ると絶望的なことが明らかな課題に挑戦することを意味します。
間違いの元は、生命を知的プロセスによって私たち自身の中に生成できると考えていることです。しかし事実は、これまでの講義で見てきたように、宇宙であっても個人であっても、生命は第一に精神(神)の働きによるものです。知性の働きは非常に重要で有用なものですが、それは創造主のそれと同じではありません。それ知性の働きは生命そのものではなく、生命の機能の一つであり、それは結果であって原因ではありません。なぜそうかといえば、私たちの知性の働きはつねに、物事のさまざまな相互関係から生じる多様な法則を研究することであり、これらの物事がすでに存在していることを前提としているからです。したがって、それは真に創造的な、つまりまったく新しいものを創造する、ゼロから創造するというものではなく、単なる建設、あるいは言葉の文字通りの意味である既存の素材の組み合わせに過ぎません。それゆえ、悪を考慮すべき力として認識することは、創造的な立場を完全に放棄することと同じなのです。それは、第一原因の次元を離れ、第二原因の領域に降り立ち、多様な相対的原因と結果の背後にある単一的原理を把握することなく、その混乱の中で自分を見失ってしまうことなのです。
さて、無限の多様性による込み入った混乱から私たちを解放できる唯一のものは、根底にある単一性の認識であり、すべてのものの背後には、それなしでは何も存在し得ない一つの偉大な肯定的原理の存在があるのです。つまり、これが生命の根源なのです。私たちがこの肯定的原理を、力を供給するだけでなく、その発現の形態をも供給できるものであると信じるならば、何かを生み出すためにこの単一的な原理を超える力は必要ないことがわかるでしょう。自らの本質から実体を生み出すのは神の思念であり、その実体が神の働きに従って形をとるのです。私たちが認識しなければならないのは、これが宇宙が存在するプロセスであるということだけではなく、神が私たち自身の中に新しい中心を見つければ、同じプロセスが私たち自身の中でも繰り返し起きるため、私たちは、意識しているかどうかにかかわらず、無からの創造をなしつづけているということです。したがって、もし私たちが悪を考慮すべき力であり、研究する必要があるものと見なすなら、私たちは事実上悪を創り出していることになります。その一方で、考慮すべき力は一つだけであり、それは絶対的に善であることを明確に理解するならば、私たちは創造プロセスの法則に従ってその善を現象化させているのです。私たちの創造的な力を積極的に活用するには、それが絶対に善いものであり、生命を与えるたった一つの根源的な力であるという基本的な概念から始める必要があることに疑いの余地はありません。もし破壊的な根源的な力も存在するなら、正と負の根源的な力は互いに打ち消し合い、結果はゼロになるため、いかなる創造物も決して存在することはできません。それゆえ、私たち自身の存在の事実そのものが、根源的な力の唯一性と善性の十分な証拠であり、この点から見て、考慮すべき第二の力なるものは存在せず、私たちは現在または将来において生じるかもしれない悪について知る必要はありません。私たちは自分が創造したい善なるものだけに心を固定すればよいのです。これには極めてシンプルな理由があります。それは、新たな創造物にはすべて必然的にそれ自身の法則が伴っており、その法則によってそれ自身の新しい状態が生み出されるということです。気球が私の言っていることの意味をよく示しています。荷物を積んだ気球の重さは300~400kgですが、ガスという新しい要素の導入により、状況を完全に変えるガス独自の法則がもたらされ、重力が完全に克服され、気球全体が空中に上昇します【訳注:ガス独自の法則とは、ガスは空気よりも軽いので上空に向かうというものです】。法則そのものは決して変わるものではありませんが、私たちはこれまで、限られた条件下でのみそれを知っていました【訳注:重力の法則の例;木片は水に浮くが、鉄片は沈む】。しかしながら、これらの条件は法則自体の一部ではありません。そして、法則をより明確に認識すれば、法則がそれ自体に条件を超越する力を含んでいることが分かります【訳注:重力の法則の例;鉄片は沈むが鉄の箱は重力によって浮かぶ】。したがって、あらゆる新しい創造物(例えば、鉄製の船)が持つ法則は、古い法則と矛盾するものではなく、より高度な作用様式への特殊化なのです。
さて、究極の法則は、精神(神)自体の内なる作用による無からの創造の法則であり、すべての下位の法則は、異なる創造物同士の間に自然発生的に生じる関係を示すものにすぎません。したがって、まったく新しいものが創造されるならば、それは必然的に他のものとまったく新しい関係を築き、まったく新しい法則を生み出すことになります。これが、純粋な精神の作用を私たちの始発点とするならば(絶対的第一原因によって無からの創造をなすならば)、私たちの過去の経験からはまったく新しいものであっても、それらはそれ以前とまったく同じようにごく自然な法則を独自の方法で現すと確信できる理由です。このような理由から、私はこれまでの講義の中で、精神(神)が無から、つまり既存の形あるものからではなく、シンプルにそれ自身の内からの独自の作用によって創造する事実を大いに強調したのです。もしこの考えが明確に理解されれば、論理的には、生命の根源は善と悪の比較の中に見出されるのではなく、精神を善のすべてを創造する力としてシンプルに肯定することの中に見出されるということになります。そして、すでに見てきたように、このすべてを創造する精神(神)は、私たち自身の心の中に活動の中心と新たな出発点を見いだすので、宇宙の創造と同様に、そこでも自らの存在の法則(思考による創造の法則)に従うことを信頼することができます。ただし、神が私たち自身の心を通して働いていることを忘れてはなりません。神は私たちの心を通して考えます。そして、私たちの心は、神の思考の幅広い一般的な流れに従うことによって、神のこのような動作モードに適した経路にならなければなりません。
その理由は、この講義を通して私が印象づけようと努めてきたことの一つ、すなわち、法則の特殊化とは決して法則を否定することではなく、逆にその基本原理をより深く認識することにあるからです。そして、これが通常の物理科学の場合の事実であれば、それは生命の偉大な法則自体を特殊化する場合にも同様に当てはまるはずです。精神(神)は、生命、愛、美の本質としての性質をけっして変えることはできません。もし私たちが、精神(神)の法則を構成するこれらの特徴を私たち自身の思考の基盤として採用し、それらに反するものをすべて排除するならば、私たちは私たち自身の心を通して精神(神)の特殊な思考のための広範な一般的条件を提供することになります。そして、精神(神)のその特殊な思考とは、創造過程の全体である、精神(神・神の光)の形あるものへの移り変わり、つまりINVOLUTION(遷移・退化)です。
かくして絶えず形に移り変えられている心は私たち自身のものです。これは外部の個性による支配ではなく、最初からずっと普遍性を不完全にしか表現してこなかった私たちの心を通じての普遍性のより完全な表現であり、したがって、そのプロセスは成長の一プロセスです。私たちは自分の個性を失うのではなく、偉大なる神の創造の御業における私たちの個人的な役割を意識的に認識することによって、自分自身をより完全に保有できるようになるのです。私たちは、聖書が私たちを「神聖な性質にあずかる者」(Ⅱ.ペテロⅰ.4)と述べているその意味を少しずつ理解し始め、そして「精神の単一性」(エペソ人への手紙第4章3)の重要性に気付きます。間違いなく、これは私たちの古い考え方の変化を意味します。しかし、これらの変化は私たちに強制されるものではなく、私たちが物事を新しい視点で見ることによって自然にもたらされるものです。
私たちは、自分ではほとんど気づかないうちに、善悪の知識からではなく、生命の原理そのものから出発する思考の新秩序へと成長していきます。それが私たちの古い思考と新しい思考の違いを生みます。私たちの古い思考は限られた事実の比較に基づいていましたが、新しい思考は原理の理解に基づいています。その違いは、目の前に置かれたリンゴやビー玉の数を数えることができない幼児の算数と、目に見えるものに依存することなく、未知の世界に大胆に飛躍する数学の学位合格者との間の違いに似ています。彼は自分が疑いのない原理に従っていることを知っています。同様に、創造の法則の絶対的な原理を理解すると、すべてを事前に決まり切ったものにする必要がないことがわかります。そうでなければ、私たちは古い経験の範囲を超えることは決してできません。【訳注:すべてを事前に決まりきったものにするということは既存の物事から出発する古い思考を意味します。】神は私たちの思考を通して考えますが、その思考は私たちの思考よりも偉大です。それは、より小さなものがより大きなものを含むというパラドックスです。私たちの思考は無目的なものでもなく、私たち自身にとって理解できないものでもありません。それは確かなことでしょう。私たちは自分が何をしたいのか、なぜそれをしたいのかを正確に理解し、合理的かつ賢明な方法で行動します。しかし、私たちはより大きな思考がつねに私たちのより小さな思考を生み出していることを知りません。この大きな思考はより小さな思考が形を取るにつれて拡大します。そのとき、私たちは、自分の小さな思考を引き起こしたより大きな思考が徐々に見えてきて、私たちが限界を設ける必要のない生命の発現度を絶えず拡大させんとする創造的な精神(神)の見えざる手に導かれて、その線に沿って動いていることに気づきます。というのも、それは私たちの中にある無限性の拡大だからです。
私には、これが魂の園、エデンの二本の木の隠された意味であるように思われます。それは、単に異なる種類の条件間の比較の知識と、条件を生じさせ、したがって条件を制御する生命の知識との区別を示すものです。ただ、私たちが覚えておかなければならないことは、条件の制御は、単に相手を戦わなければならない実体として認識するような暴力的な自己主張によってではなく、静かに、しかし確実に生命、愛、美のライン上で働いている万物を創造する神との意識的な一体化によって達成されるものであるということです。 「威力によらず、権力によらず、我が精神によって、と万軍の主は宣う。」【訳注:ゼカリヤ書4章6節の一文】