私がモーセの律法や預言者の言葉を破壊するために来たと考えないでください。「私は破壊するために来たのではなく、成就するために来たのです。」(マタイ 5:17)
「キリストは、神を信じる者すべてにとって手本となる目標です。」(ローマ人への手紙 10章4節)。
もしこれらの言葉が単なる宗派的な盲信の言辞であるならば、それに価値はありません。しかし、もしそれが偉大な原理を述べているのであれば、その原理が何なのかを検討する価値があります。何かを成就するということは、その中に潜在的に含まれているすべてのものを完全に実現することであり、したがって、何かの法則を完全に満たすということは、その法則に内包されているすべての可能性を引き出すことを意味します。そして、これこそが物質文明のあらゆる進歩をもたらしてきた方法です。自然の法則は、私たちの粗野なアングロサクソンの祖先の時代と今もまったく同じです。しかし、彼らはその法則が内包する可能性のごく一部しか引き出せませんでした。それに対して、今、私たちはさらに多くのものを引き出しています。しかし、決してまだ引き出し尽くしているわけではなく、今も私たちは自然法則に逆らうのではなく、その潜在的な力をより完全に理解することによって、前進しつづけています。ということであれば、私たちはこれと同じ方法で、私たち自身の存在の法則の中に、まだ実現されていない可能性がないかどうかを確認すべきではないでしょうか。私たちは、よき時代の到来や人類の向上について語りますが、しかし、人類は個人で構成されていることから、人類の真の進歩は議会の法律によってではなく、個人の変革によってのみ行われると考えられます。 もしそうであれば、出発点は私たち自身です。
個別的存在の法則の完全な顕現例を示すことが、キリストに関する聖書の教えの終着点あるいは目的です。それは、十分な原因の作用なしにはいかなる結果も生み出されないことを十分に認識した、霊的で精神的な法則に基づく教えであり、キリストは原因を説明するとともに結果のすべてを示す者として私たちの前に現れています。このすべては法則に従っています。法則に従っていることの重要性は、法則が普遍的なものであり、法則の持つ可能性がすべての人に内在していることです。誰かのための特別な法則というものは存在しません。しかし、法則からどれだけのものが得られるかを十分に理解したうえで法則を用いることで、誰もが法則を特別化することができます。そして、聖書のキリストに関する教えの目的は、私たちがこれをなす手助けをすることです。
これまでの講義で、私たちは、世界を最初に存在させた起源の精神(神)が私たち自身の個性の根源でもあり、それゆえ、その本来の性質により、必要な条件が提供されるやいなや、この個人の立場から創造的プロセスを継続する準備をつねに整えていることを段階的に理解することができました。これらの条件とは思考という条件です。そして、キリストと起源の精神、親なる神、あるいは「父」との関係を理解することによって、私たちは、私たちの隠れた存在のすべての可能性を引き出して創造的に作用する思考の基準(a STANDARD of thought)を受け取ります。さて、そのキリストと「父」との関係とは、前にお話しした、万物を創造する神の心の中の原型的イデアのことであり、したがって、私たちは普遍的な原理であるがゆえに私たち個人個人の心の中に再現することのできるキリストのイデアという概念に達します。これが聖パウロがキリストが私たちの中に形成されると語ったことの意味の説明です。ここで、単一起源の原理が登場します。この原理は、この講義シリーズの前半で、精神(神)自らの内的作用によってすべての創造物が生成されると説明したものです。いかなる第二の力による支配も受けませんので、純粋に精神的な理想を外部に実在化させることが可能です。このような理由から、体系的な霊性の研究は、現存する宇宙を熟考することから始まり、次に私たちは精神(神)の単一起源の力という概念を宇宙から個人へと移し、同じ精神(神)がわれわれ自身の中でも同じことを行うことができるということを理解します。これが、やがて新秩序の中でその役割を果たすことになる新思想です。こうして私たちは、精神(神)が私たち自身の個性という新しい立場から創造的な働きをつづけることを可能にする新しい思考条件を提供するのです。精神(神)によるこの新たな出発点の獲得こそが、「オクターヴ(第8音)」の秘教的教義が意味するところです。オクターブとは、音楽のオクターブ(第8音)と同様に、前のシリーズの開始点を異なるレベルで複製する新しいシリーズの開始点です。【訳注:音楽の例で言えば、ドレミファソラシドの8番目のドのことです。このドが次の音階の1番目(開始点)のドとなります。】このオクターブの原理は聖書の中で絶えず言及されています。7番目で前のシリーズが完了して、8番目から新しいシリーズが始まり、この8番目が次のシリーズの1番目になります。二番目のシリーズは自然な成長によって最初のシリーズから生まれ、それなしでは存在することはできません。したがって、二番目のシリーズを最初のシリーズの延長と見なせば、二番目のシリーズの最初あるいは始まりの番号は「8」になります。「 7 」は完全な顕現を象徴する数値です。3 と 4 の組み合わせであり、それぞれ霊的要素と物質的要素、つまり退化(involution)【訳注:霊的主体の創造物への移行】と進化(evolution)の完全な働きを表しており、合わさって完成した全体を構成します。タロットの学習者はここで、ヨッド(Yod)のヨッド(Yod)が彼(He)のヨッド(Yod)になる過程を理解することでしょう。このような理由から、原初の創造、つまり宇宙の創造は、7日目の残り時間で終了するのです。というのも新たな出発点が見つかるまでそれ以上先へは進むことはできないからです。しかし、「父」との関係を理解する人間の中に新たな出発点が見出されると、新たなシリーズが開始され、次の創造のオクターブへと進むことになります。したがって、復活は安息日や7日目ではなく、8日目に起こり、それが新しい週の最初の日となります。復活の原理とは、人間による精神(神)の個別化の実現であり、精神(神)はつねに同じ精神であるため、それが彼自身の中心からの新しい創造のアルファ(始まり)になるという事実を認識することです。
さて、これらすべては必然的に精神世界で起こる内的なプロセスです。しかし、創造プロセスがつねに第一義的には霊的世界における退化(involution)、あるいは物体の形成であることを理解すれば、「神の子」としてのキリストの意味とは、普遍的精神(神)の霊的世界における必要な思考条件を備えた人格への集中であることが理解できるでしょう。それを理解するすべての人に対して、その個性と相互に作用し合う神聖な個性が普遍的精神(神)の中に生じます。この認識が、普遍的精神(神)からの個人の魂の創出とそこから生まれる関係性に関するすべての形而上学的な問題の解決策となります。というのも、この認識がこれらの問題を、創造的でなく分析のみを行う知的思索の領域から、創造的な力の住処である解答をもたらす霊的感覚の領域に移すことになるからです。神のこの個人的な認識は、私たちに新たな肯定の基盤を与え、それを分析するためにさらに遡る手間をかける必要はもうありません。なぜなら、私たちは実験的にそれが存在することを知っているからです。こうして、今私たちは、神の心の中の原型的なパターンに従って私たちのために準備され、したがって完全に正しく形成された新しい創造の出発点を見つけます。この真理がひとたび明確に理解されると、それが知的なプロセスによるものであれ、シンプルな直観によるものであれ、私たちはこれを出発点とし、これに基づいて私たちの思考には精神(神)の創造力が浸透していると主張することができます。
しかし、このようにして到達した概念がいかに広大であっても、それがまだ出発点であることを忘れてはなりません。確かに、それは私たちのこれまでの考えの範囲を超えており、私たちを8番またはオクターブに導く、これまでの宇宙の創造シリーズの頂点を示しています。しかし、まさにこの理由で、それは個人に固有の新しい創造シリーズの1番(始まり)となるのです。
そして、精神はつねに同じであるため、より高いレベルでの創造プロセスの繰り返しを期待できます。私たち全員が知っているように、そのプロセスはまず精神が物質に退化し、その後、物質が精神の媒体(乗り物)としての適合性を継続的に高める形態へと進化するというものです。したがって、私たちはこの普遍的なプロセスの繰り返しを個人の心という新しい出発点から期待し、思考は物であるというよく知られた公理に従って、思考の外部化を待つことができます。
今、福音書のキリストは、神の理想の外的な現れとして私たちの前に示されています。私は独断的なことを言いたくはありませんが、霊的視点における創造的プロセスの性質をより明確に理解すればするほど、福音書の説話に対する現在の数々の異論は力を失うことになるということだけは言っておきます。福音書の説話を真っ向から信じられないこととして否定することは、私たち自身の中の神の力に関しても同様の否定をすることであると私には思えます。皆さんは原理を肯定しながら同時に否定することはできません。私たち自身に関して神の外在化する力を肯定しているのに、なぜその作用に論理的な制限を設け、キリストが置かれたような高度に特殊化された条件下では、そのような外在化(奇跡)が起きることはあり得ないなどと言えるのか、私にはわかりません。聖ヨハネが、キリストが肉体を持って現れたかどうかをすべての事柄の判断基準としているのは、このためです(ヨハネの手紙第一 4:2)。そもそも、論理的にいって神の働きの範囲や方法に私たちが制限を加えることはできません。個人の拡大に対する私たちの期待の根拠は神の無限の創造力にあるのですから、福音書のキリストの復活をあり得ないこととして拒否することは、私たち自身の足元から地面を切り取ることと同じです。「精神(神)がなぜそのような働きをなしたのか理解できない」と言うのは、私たちの現在の知識レベルを示す正直なコメントに過ぎません。あるいは「精神(神)がそのような働きをなしたとは思えない」とまで言う人がいるかも知れませんが、それはまさに私たちの知的障害を告白するものです。外的な結果を生み出す精神(神)の力を信頼していると公言している人は、神がその力を持っていないとか、限られた範囲でのみ持っているなどと言うことはできません。そんなことを言えば、その公言が論理的に自己破綻します。したがって、私たちがなすべきことは、判断を保留し、見える限りの光に従うことです。そうすれば、やがてそれは私たちにとってより明らかになることでしょう。キリストの教義には、闇の謎のオカルト的な深みに対抗するために、至高の叡智によって構想されたオカルト的な高みがあるように私には見えます。私たちの現在の幼稚な知性で、このような高みや、このような深みを測ったりすることは、まったく必要ではありませんし、可能だとも思いません。しかし、私たちの存在の法則が、私たちの知る限り、キリストにおいていかに完全に成就されているかを理解するならば、私たちが直感によってかすかに推測することしかできないような、この法則のさらに深い側面の存在が容易に理解できるのではないでしょうか。時折、ベールの裾が引き上げられ、その奥を垣間見る人もいます。それは一瞬であっても、私たちの現在の理解を超えた力と神秘が存在することを示すのには十分です。しかし、そこでも律法が最高位に君臨しています。したがって、私たちはキリストを基盤とし出発点として、すでに成就された律法からスタートしますので、私たちに馴染みのある事柄であろうと、私たちの思考を超えた領域のことであろうと、悪を恐れる必要はありません。私たちの出発点は、神によって安全を保障されており、そこから私たちは、自分自身の存在の法則の成就である、より高い進化へと静かに成長することができます。