5-4-2-7.第7章「大いなる肯定」

大いなる肯定は、「宇宙」と「個人」という二つのモードで現れます。本質的にはどちらも同じですが、それぞれ異なる観点から機能します。大いなる肯定とはつねに「存在」の原理であり、「存在するもの」は「存在しないもの」と区別されます。しかし、この言葉の真の意味を理解するためには、「存在しないもの」が何を意味しているのかを理解しなければなりません。「存在しないもの」は単に存在しないという以上の何かです。なぜなら、単に存在しないものであれば、私たちが気にすることはないからです。それは浴槽であると同時に浴槽でない、この記述に対する答えは「条件」です。小さな肯定は、特定の条件を自分が把握できるすべてとして肯定するものであり、大いなる肯定は、より広い概念、つまり条件を生じさせるものの概念を把握するものです。宇宙レベルにおける大いなる肯定とは神は自らの表現手段として被造物全体を創り出しているという認識です。このため、私はこれまでの講義で、目に見える宇宙全体の無からの創造という考えに注意を喚起したのです。東洋と西洋の聖典が等しく語るように、それは起源の精神(神)の息吹です。そして、もしあなたが、個人におけるこの精神(神)の現れについて私が述べたこと、つまり、創造的プロセスの性質上、人間の心は神の心と同質でなければならないということに従うならば、神の第二のモード、すなわち、個人の心を通して作用するモードが可能になることに気づくでしょう【訳注:小さな肯定では人間とは神とは異なるものとしてしか認識していませんが、大いなる肯定では人間とは神が自らの自己表現をなすために個別的に作用する媒体(ツール)として創り出したものと認識します】。しかし、宇宙的に作用しようが、個別的に作用しようが、それはつねに同じ精神(神)であり、したがって、その固有の特性、すなわち、無から創造する力という特性を失うことはありません。それは「無からは何も生じない」という格言と直接矛盾していますが、無から有を生み出すこの神の力が自分の中にあることを認識することこそ、私たちがさらに前進するための鍵なのです。神の自己表現という宇宙の創造プロセスの論理的な進化の結果として、神は自身の一つのイメージを人間として創造し、これによって宇宙の創造プロセスにおいて一般的に(平均の法則として)働くのとまったく同様に、特殊的に働くことができる新たな作用点を得ています。この新しい立脚点を得ることによって、神は宇宙の創造に関する秩序の法則に何ら矛盾することなく、それを特殊化し、個を通して他の方法では到達し得なかった結果をもたらすようにしているのです。

さて、神は始原の宇宙の創造と同じ方法、つまり無からの創造によって人間の創出を行っています。そうでなければ、物事の三次元宇宙的な形態に必然的に生じる制約に束縛されて、新たな創造の出発点は得られなかったことでしょう。これが、聖書が単生成論、つまり二つのものの組み合わせや合体からではなく単一の力からの創造の原理を強調している理由です。神の唯一性がすべての戒律の基礎であり、「神の子」は「一元性」あるいは一元的に生まれたと述べられているのはこの理由からです。これはギリシャ語からの正しい翻訳でもあります。単一の力からの創造というこの原理の計り知れない重要性は、反対の原理、つまり二元の力から人間が創られたという仮定から生じる結果を十分に理解すれば明らかになります。しかし、この大きなテーマを議論するにはそれ自体で膨大な字数を必要としますので、現時点では、この創造力の単一性に関する聖書の主張は、創造力のまさに根幹に至る深遠な知識に基づいているとだけ述べておくことにします。表面的には後者の方が理にかなっているように見えるかもしれませんが、二元論を誤って支持し、一元論を脇に置いてはなりません。

さて、大いなる肯定を言葉で表現することができるとすれば、それは、神は一(いつ)なるものであり、そして、この一なる神が私たちの中に働きの中心を見出すということです。もしこの言葉の意味が完全に理解されれば、その論理的な帰結は、私たち自身の内と外における新たな創造であることが分かるでしょう。私たちはシンプルであることを特徴とする新しい原理の働きを、自分自身の中で実感することになるでしょう。それは唯一なるものであり、その他の如何なる二次的なものにも影響されることはありません。すなわち、神の創造原理の作用が何らかの第二原理、つまり別の特定の方法で動作するよう強制されたり、別の何かによって修正されたりするようなことはまったくありません。私たちは神の創造原理の単一性のみに焦点を当てればよいのです。地球の自転が太陽の周りの公転を妨げず、どちらの回転も同じ地球という単一体の運動であり、確実に相互に関連しているように、その単一性はより大きな運動とより小さな運動で構成されています。同様に、神の精神は宇宙という大宇宙と個人という小宇宙の中で同時に働いており、二つの働きが調和するのは、それが同じ精神のものだからであり、後者は前者に含まれ、前者を前提にしているといえます。

大いなる肯定とは、「神」と「個」は一つであり、つねに個は神と調和し、一体であるべきこと、個が神とは別の創造的な力を有しているわけではないので、神との調和のもとですべてのものが現象化するという事実を認識することです。このつねに単一である神の創造的力が自分自身の存在の根源であり、したがってこの力が自分自身に中心を持ち、自分自身を通して神としての自己表現をなしていることを理解したとき、個は創造的力の単一性と、自分の内なる思考と自分の外なる条件との一致を確信するに至ります。そして、「私と私の父は一体である」という肯定が、存在の基本原理を正しく理解することで得られる必然的な結論であることを理解します。かくして、より小さなものはより大きなものに含まれなければならないという原則のもと、個は自分の特定の動きを、創造原理として大いなる全体を通して働く神の大きな動きに適応させることによって、自分の動きが神の動きと調和することを望みます。このようにして、私たちは、一般的な法則が特殊に作用する際に、つねに必要とする個別的な要素となることによって、神の創造的な力が特殊に働く中心となるのです。ここにおいて、普遍的な大いなる神の力と、時間と空間における相対的な物事の現象化を結びつけることのできる、特定の個性が形成されるのです。なぜなら、私たちは意識的に双方に関わることができるからです。

なお、このレベルに達した個人は、万物の基にある神の単一性を認識していますので、過去であれ現在であれ、外的条件にはいっさい心を向けず、宇宙と自分自身の双方においてつねに一体である神の働きに心の焦点を定めるよう努めます。彼は神にあれこれ注文しようとする試みを止めます。なぜなら、神を単に受け身的な創造の力として見るのではなく、神を最高の知性として崇拝しているからです。その一方で、彼は、神が自分自身と一体であり、自分を通して神自身を表現していること、したがって、自分自身の個人の幸福に反するいかなることもなしたりはしないことを知っているため、疑いや恐れを抱いてその前にひれ伏すこともしません。これらのことをよく認識している彼は、自分の外見上の行為や状態が、現在自分が到達している段階のみならず、将来のすべての段階においても、神の偉大な働きと調和しなければならないことを知って、自分の思考を意図的に神の導きの下に置きます。彼が、個人的な世界における神の創造媒体としての自分の思考の力を否定することはまったくありません。逆に、生命の諸原理間の真の関係に対する彼の認識は、神の創造媒体としての自分の思考の力の認識に基づいています。この理由から、彼は自分の目には見えないものを見ることができる神の智慧によって導かれることをよりいっそう熱心に求め、その結果、自分自身の人生の状況に対する個人的なコントロールが彼の人生に継続的な豊かさと発展をもたらします。

このようにして、私たちの「私は存在する」という肯定は、私たちの限定的な人格の矮小な主張ではなくなり、「偉大な私(神)」が私たちの中に、そして私たちを通して存在することを肯定するものとなります。かくして、「私は存在する」という言葉は、まさしく大いなる肯定となります。あるいは、それ自体には存在を持たず、存在を表現するための乗り物として単に外在化されているにすぎないものとは区別される、すべての存在の根源を肯定するものとなります。私たちは、創造のプロセスが一元的なものであり、その実行に神以外の要素を必要としないことから、すでに生じている条件からは完全に独立した、下位の創造的中心としての私たちの真の位置づけを認識することになりますが、同時に、神の本質的な働きにおいて偉大な神の配下にあることも分かります。なぜなら、神は一(いつ)なる存在であるため、ある中心で行われていることに、私たちが別の中心から反対することはできないからです。かくして、大いなる肯定は、私たちを偉大なる王(神)の子供とし、私たちの上にある神の力に従順に生きさせると同時に、私たちの下にある二次的因果関係の世界のすべてに対して同じ神の力を行使させるものとなります。

こうして、私たち一人ひとりが、自分の尺度と持ち場において、「私は存在する」の使命を受け取ることになるのです。

第8章「キリスト:律法の成就」はこちら

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