私がこれまで述べてきた新思想における重要な公理の一つは、私たちの「思考」には創造の力があるということであり、すべてはこれを基礎にしていますので、この公理については慎重に検証する必要があります。さて、出発点は、思考という純粋に精神的な作用が、現在存在するすべての被創造物が出現するに至った唯一の源であることを理解することです。そのために、私はこれまでの講義で、宇宙の始まりを強調してきたのです。従って、この点については改めて言及する必要はありませんので、今回は、すべての存在は本質的に「神の思考」が現象化したものであるという前提で考察を開始することにします。この前提から言えることは、私たち自身の心も「神の思考」の結果であるということです。すなわち、神の思考は、“それ自身が考えることができるもの”、すなわち人間を生み出したのです。しかし、問題はその“神の思考の産物である私たち自身”の思考が神の思考と同じ創造性を持っているかどうかということです。
私がこれまで述べてきた新思想における重要な公理の一つは、私たちの「思考」には創造の力があるということであり、すべてはこれを基礎にしていますので、この公理については慎重に検証する必要があります。さて、出発点は、思考という純粋に精神的な作用が、現在存在するすべての被創造物が出現するに至った唯一の源であることを理解することです。そのために、私はこれまでの講義で、宇宙の始まりを強調してきたのです。従って、この点については改めて言及する必要はありませんので、今回は、すべての存在は本質的に「神の思考」が現象化したものであるという前提で考察を開始することにします。この前提から言えることは、私たち自身の心も「神の思考」の結果であるということです。すなわち、神の思考は、“それ自身が考えることができるもの”、すなわち人間を生み出したのです。しかし、問題はその“神の思考の産物である私たち自身”の思考が神の思考と同じ創造性を持っているかどうかということです。
さて、この(すべての存在は神の思考の現われであるという)仮説に立てば、すべての創造的プロセスは、普遍的精神(神)が個別かつ特定のものを通して自己表現することで成り立っており、それゆえ、そのさまざまな形態の存在の一つ一つが神の生命であり神の実体であるということです。したがって、もしさまざまな形態の存在に思考力があるとすれば、それは原初の神の思考力と同じものであるということになります。もし、これより低次ものであるならば、それはある種のパターンにすぎず、思考力とはいえません。したがって、思考力があると言うからには、それは原初の神と同一レベルのものでなければならないのです。「人間は神に似せて創られた」と言われるのはこの真実ゆえのことであり、これ以外の存在ではありえないことを理解すれば、そこに多くの重要な推論を導き出すための確固たる土台を見出すことができます。
ところで、もし私たちの思考がこのような創造的な力を持っているのであれば、なぜ私たちの人生は悪条件に阻まれるのでしょうか。その答えは、これまで私たちが思考力を逆向きに使っていたからです。私たちは、外的事実から思考の出発点を得ており、その結果、同じような性質のものを繰り返し作り出しています。そうする限り、私たちが既存の有限の軛(くびき)から抜け出すことはありません。そして、潜在意識は暗示に敏感であるため(『エジンバラ講演』第5章参照)、私たちは肯定の原理(真理)を知らない人たちから非常に強力な否定的影響を受け、その人種的信念やより身近な環境の思考の流れが、私たちの逆転した考えを強固にする傾向があるのです。したがって、このようにして私たちの思考の創造力が間違った方向に使われたために、私たちが不満を抱くような制限された状況が生じたとしても、それは驚くにはあたりません。したがって、解決策は、思考方法を逆転させ、外的な事実を出発点にするのではなく、精神力の本来の性質を出発点にすることです。私たちはすでにこの方向への二つの大きなステップをクリアしています。第一は、今出現している宇宙全体は、その起源が精神力以外のどこにもあり得ないことを理解していることであり、第二は、私たち自身の精神力は、起源なる精神(神)のそれと同じものでなければならないことを認識していることです。
さて、さらに一歩進んで、自分自身の中にあるこの力をどのように永続させ、強めることができるかを見てみましょう。創造プロセスの本質により、あなたの心はそれ自体が親なる神の心の思考です。ですから、この普遍的な神の心の思考が存続する限り、あなたは存続します。あなたはその思考なのですから。一方、あなたがこの思考を持つ限り、この思考は存続しつづけ、必然的に神の心の中にあなたは存在しつづけ、こうして個々の生命の永続に必要な論理的条件が満たされます。このプロセスのいささか不十分な類似例としては、自励式発電機が挙げられます。この発電機では、磁気が電流を生成し、その電流が磁気を強め、その結果、飽和限界に達するまでさらに強い電流が生成されます。ただ、普遍的な神の心の本質的な無限性と個々の心の潜在的な無限性には、飽和の限界はありません。また、二つの心の相互作用を、向かい合った大小二つの鏡に例えて見るのもよいかもしれません。大のほうに「生命」の文字を刻むと、反射の法則により、大きい鏡に映った小さい鏡の像にも「生命」の文字が浮かび上がり、この鏡像は無限に展開します。もちろん、これらの比喩ははなはだ不完全なものに過ぎませんが、もしあなたが自分の個性を、神聖なる心(神)の中の思考の現われであり、自分をその思考として考えることによって自分を永続させることができるという考えをひとたび理解するならば、あなたは自分の存在問題全体の根本を理解したことになり、同じプロセスによって、自分の人生を永続させるだけでなく、それを拡大させることにもなるでしょう。
一方ではこのことを理解し、他方では身体を含むすべての外的条件は思考によって生み出されることを理解するとき、私たちは自分が二つの無限、すなわち精神の無限と物質の無限の間に立っていることに気づきます。私たちはその両方から私たちが意図するものを引き出し、普遍的精神の創造的な力によって普遍的物質(原始物質=神の光)から特定の条件を形作ることができます。しかし、これは普遍的物質に対する私たちの意志の力によるものではなく、私たちの認識力によるものであることを思い出さなければなりません。それは、私たちの心は普遍的な神の心が普遍的物質に作用して、私たちの思考を特定の方法で具現化するための経路であるという認識です。(個人の意思の力によるものと考えることは、あらゆる面で逆境に陥ることになる誤りです)。もし、諸々の原理原則は神の心の働きに他ならないことを認識し、私たちの思考を、特定の事柄よりもむしろ原理原則に習慣的に集中させるなら、私たちは、原理原則が独自の表現を生成すべく必ず発動することがわかるでしょう。かくして、「神の王国と神の義をまず求めよ、さすれば、これらすべてのものがあなた方に加えられる」という偉大な教師(イエスキリスト)の言葉が実証されることになります。しかし、私たちの思考が創造的な力を持つ理由は、私たちの心そのものが神の心の思考(の産物)であるからであり、その結果、私たちの生命力と創造力の増大は、親なる神の心との関係の認識に正確に比例することを、決して見失ってはいけません。このような考察の中に、キリストの概念の極致である聖書の教義「神の子」の哲学的基礎が見出されます。これらは単なる空想ではなく、個人の人生の最も奥深い問題に適用される科学的原理を正確に表現したものです。それらの基本は、肉体の内であろうと外であろうと、各人の世界は必然的にその人自身の意識によって創造されるということであり、次に、彼の意識はその色調を必然的に神の心との関係についての彼の概念から受け取るというものです。もし、彼が神の心を理解していなければ、それは光と色を排除したものとなり、彼が光、愛、美そのものであるすべての起源の精神(神)と自分存在との同一性を理解していれば、それに比例して、それは美的な形態を作り上げるものとなります。かくして、私たち一人ひとりの思考の偉大な創造的働きは、私たちに「全能の息子と娘」を意識させるものとなります。私たちは私たちを通して絶えず自己表現をなそうとしている神から創られしものゆえ、神から本当に分離されることは決してなく、そのように見えたりするとすれば、それは普遍的なる神と個の関係の本質に対する私たち自身の誤解によるものであることを理解する必要があります。これが、偉大な教師が放蕩息子の譬え話で私たちに明快に示してくれた教訓です。