先の3回の講義では、基本的な真理について、明確な順序で触れてきました。まず、起源となる精神(神)そのものの性質、次に、このすべてを包含する精神(神)に対する個人の一般的関係、最後に、この関係を特殊化して、単なる一般的作用によって自然に得られるものよりも大きな結果を得る方法、そして、これは新しい思考の秩序によってのみ可能であることを理解しました。この順序は、「力」、「力を理解する個人」、「力の本質を理解することから推測される力の適用方法」を示しており、論理的なものです。これらは一般的な原理であり、これらを理解しないことには先に進めませんが、読者がその意味を理解したと仮定して、次にこれらの応用についてより詳細に検討することにします。さて、この応用は個人的なものでなければなりません。というのも、この力のより高次な特殊化は個人を通してのみ可能なことであるからです。しかし同時に、この事実を、個人自らが創造的な力を生み出していると考えてはなりません。このように考えることは、本末転倒です。個人の神に対する関係は、分配する者であって、創造する者ではないことを、どんなに深く心に刻み込んだとしても刻み過ぎるということはありません。このことをしっかりと銘記しておけば、道は開けますが、そうでなければ混乱に陥ることになります。
では、私たちが分配すべき「力」とは何なのでしょうか。それは、起源の精神そのものです。これは確かなことです。なぜなら、新思考法はつねに、それが現象化させようとするあらゆる一連の物事の始めから関わり、すべてのもの(物質)の起源は精神であるという事実に基づいているものであるからです。創造の力は起源の精神の内にあります。それゆえ、新思考法を真に理解している人は、自分が分配しなければならないもの、あるいは具現化のために分化させなければならないものは、起源の精神にほかならないという事実を当然と考えます。そういうことから、分配の目的は、起源の精神自体がそうであるものをより完璧に表現することでなければならないことは明らかです。そして、それ自体がそうであるものとは明らかに生命です。かくして、表現を求めているのは起源の精神の完璧な生命性であり、それは、私たち自身を通して、私たちの新たな思考様式によって表現されます。それでは、生命の原理に関して私たちの新思考法が、どのように作用するのかを見てみましょう。私たちの古い思考法では、生命をつねに肉体と結びつけてきました。生命は私たちにとってこの上なく物理的な事実でした。しかしながら、今や、生命はこれ以上のものであることが分かっています。しかし、大は小を兼ねるように、生命はその顕現の一つのモードとして肉体の生命も含みます。真の思考法は、物理的な生命の実体を否定したり、それを幻想と呼んだりはしません。それどころか、肉体の生命に偉大な創造体系の完成を見、その体系において肉体生命を適切に位置付けします。旧思考法はこうではありませんでした。【訳注:旧思考法は霊的な生命を否定し、それを幻想と呼びます。】
創造のプロセスについての真実を理解すると、起源となる生命は物理的なものではなく、その生命力は思考とフィーリングにあることがわかります。この内なる動きによって、生命が機能するための乗り物が発出され、これらが、これらを維持する内なる原理によって生きたものとなるのです。つまり、新しい秩序において私たちが第一に関心を寄せる生命とは、神の生命の乗り物、あるいは分配媒体としての私たち自身の思考とフィーリングの生命なのです。
そして、前回の講義で述べたように、私たちが神の知性(思考)には偉大な形成力が秘められていることを理解していれば、私たちはそこに力と形の源泉を求めることになります。そして、そこから論理的に導き出される結論として、私たちは自分の思考やフィーリングに形を与えるために、神に目を向けることになります。この原理を一度認識すれば、順序は明白です。私たちの外見的な条件は、身体であれ人生環境であれ、私たちの思考やフィーリングによって形作られ、この思考やフィーリングは、私たちが示唆を受けることとした源から形作られます。したがって、相対的で限定的なもの(この世的な事象)から基本的な示唆を受け入れることを許せば、それに見合った外形が現象化し、以前と変わらぬ制約された人生環境が絶え間なく繰り返されます。さて、私たちの目的は、この制約の輪から抜け出すことにあるわけですが、その唯一の方法は、思考とフィーリングをより高い完成度を目指して前進しつづける新しい型で形成することです。したがって、この要件を満たすには、私たち自身のそれよりも大きな形成力が必要であり、それには、私たちの思考とフィーリングを、私たちの中で、私たちを通して、生命の完全な表現に相応しい型に鋳込むことのできる、最高の美と智慧の存在である神を示唆の源とすることです。
さて、これは神の次元への移入に他なりません。すなわち、これは「新思考の中にいる」すべての読者にとって非常になじみ深いと思われる原理、受容性の原理です。ヒーリングやテレパシーが適用されるときの「受容的な心構え」の意味は、私たちの誰もが知っていることですが、論理的にいって、この同じ原理を、至高の源から生命そのものを受け取ることにも適用することができます。それゆえ、求められるべきは、神に対して受容的な精神態度をとり、その形成力の影響を受けようと意図することです。知的な受容の姿勢と、たまたま周りに漂っているあらゆる影響を吸い込むスポンジのような吸収力とを区別する、ものは、つねに明確な意図の存在です。なぜなら、私たちを取り巻く精神的雰囲気にはさまざまな影響があり、その中には最も望ましくない種類のものもあるからです。この事実に目を閉じてはなりません。したがって、明確な意図は、積極的で創造的な態度と同様に、受容的な態度においても必要です。もし、私たちの意図が自分自身の思考やフィーリングを、神の思考やフィーリングの型で形作ることであるならば、神との関係が確立し、神は、その時の条件に応じて、私たちの思考やフィーリングを、その具現化が可能な新たな理想的な型へと必然的に導いてくれるに違いありません。このようにして、私たちは、空間と時間の相対的世界において神の思考を表現する個別化の中心となり、単なる一般的な顕現の法則が個別に作用することはないというその制約を超えて、神が特定の世界で個別に作用することを可能にするのです。私の『精神科学に関するエジンバラ講義』(31ページ)にあるように、潜在意識はまさにここで、有限の相対的世界と無限の神とをつなぐ「橋渡し」の機能を果たしているのであり、だからこそ、潜在意識の表面意識(深層意識含む)からの印象(暗示)の受けやすさを認識することが非常に重要なのです。
かくして、神の生命との個人的な関係を確立することによって、個の領域が拡大されます。その理由は、彼が自分の知性よりも大きな知性に主導権を握らせるからです。そして、彼はこの知性が生命の原理そのものでもあることを知っていますので、それが自分の個の生命を減少させるような働きをすることを恐れることもありません。もし、そのようなことをすれば、それは神自身の働きを無効にすることであり、創造的精神(神)の概念と矛盾する自己破壊的な働きになってしまうからです。この知性は、その本来の性質上、個人の生命を拡大するためにのみ働くことができるということを知って、私たちは、最大限の確信でもってこの知性を頼りとし、自分の知識から予測できるものよりもはるかに大きな結果に導くための主導権をこの知性に委ねることができます。しかし、神の作用に対して、私たちが特定の形を指示することにこだわると、神の働きに制約を課すことになり、そうでなければ開かれていたかもしれない拡大の道を自ら閉ざしてしまいます。私たちはともすればこのようなことをしがちですが、なぜこのようなことをするのかと自問してみると、最終的には、物を形成する力としての神を信じていないからだとわかります。私たちは、実際のところ、所定のパターンで機能する実行力としての神の概念には達していますが、神がデザイン芸術にも精通しており、それ自体が完全であるだけでなく、互いに完璧に調和するような建設計画を練り上げることもできるという概念までは把握していません。私たちが、神は力だけでなく形の理想も含んでいるという概念にまで進むとき、内面的であれ外面的であれ、私たちは物事を特定の形に押し込めようとする努力をやめ、私たち自身が考え得るものよりはるかに進んだ組み合わせを創り出すところの神に内在する調和性あるいは美的センスに全幅の信頼を寄せることできるようになります。これは、私たちが願望、期待、熱意がすべて消え失せた無気力状態に陥るという意味ではありません。なぜなら、これらは私たちの精神機構の原動力だからです。そうではなく、私たちの精神作用の背後には、絶対的に確実で的を外すことのない神の形成原理が働いていることを知ることで、それらの働きはむしろ促進されることになります。その結果、既存の形がどんなに素晴らしく、美しいものであったとしても、私たちはつねに、よりよいものが来るという幸福な期待感を持つことができます。そして、それは自然な成長の法則によってもたらされます。なぜなら、神はそれ自体が増大の原理だからです。それらは、さらなる遠方へ到達したいのであれば、今いる場所から出発するしかないという単純な理由により、現在の状況から成長していきます。それゆえ、「小事の日を軽んじるな」と聖書に記されているのです。私たち自身の周囲の世界における神の前進運動(私たちの進化)には、ただ一つの条件が付けられています。それは、私たちがそれに協力しなければならないということです。そして、この協力とは、増大の精神(神)が私たちを通して、また私たちのために表現されることを、喜びをもって信頼し、既存の状況を最大限に活用することです。なぜなら、私たちは増大の精神(神)との調和の中にあるからです。この精神的態度は、私たちを心配や不安から解放するうえで計り知れない価値があり、その結果、私たちの仕事ははるかに効率的な方法で行われることになります。それゆえ、この神の働きを知って、現在の仕事をそれ自体のために行うことです。シンプルにそれ自体のために行うことで、よい結果を逃すことのない集中力をそれに注ぐことができます。これは非常に自然なことであり、つらい努力を必要としません。かくして、神への協力の秘訣とは、神を信じている自分自身を信じることにあることがわかります。そして、この聖なる自信は、他の誰よりも自分が優れていると思い込む自惚れの利己主義とは非常に異なるものであり、自分が自然の法則に従って働いていることを知っている個人に対する神の保証の表れなのです。このような人は、法則が自分のためになすことを自分の手柄として主張したりはしません。しかし、その一方で、彼は、彼が用いている法則を知らない人々によって浴びせられる、彼の自信にあふれた態度に対する非難の声を気にすることもありません。彼は自慢したり臆病になったりすることなく、絶対不変の法則に依拠していることを知っているがゆえに、シンプルに明るい期待を抱いて仕事に取り組みます。 このように、私たちは神の生命とは神の法則でもあることを悟らなければなりません。両者は同一であり、自らを否定することはあり得ません。それらを認識することは、私たちの精神性(思考)を通してそれらに新しい出発点を与えますが、それらの性質は依然として同じままであり、私たちが制限された条件または逆転した条件を肯定することによって制限または逆転されない限り、それらは、神それ自体の生命、愛、美をより完全に継続的に表現しつづけます。したがって、私たちの道は明白です。それはシンプルに、神の生命、愛、そして美について観想し、たとえ今は取るに足らないものに見えても、思考と行動において私たちはすでに神に表現を与えていることを肯定することです。この道は最初は非常に狭くつつましやかに見えるかもしれませんが、それはつねにますます広くなり、より高くなっていきます。なぜなら、それは無限で限界を知らない神の生命の絶え間ない拡大表現であるからです。