5-4-2-1.第1章「その精神の内に入る」

この言葉の意味は、私たちの日常生活で誰もが知っていることです。精神とは、あらゆるものに生命と動きを与えるものであり、実際、それを存在させているものです。作家の思考、画家の印象、音楽家の感性、これらなくして彼らの作品は生まれ得ないのですから、作品を生み出すアイデア(IDEA)の中に入ってこそ、作品が与えてくれる楽しみや恩恵のすべてを得ることができるのです。もし私たちがその精神に入ることができなければ、書物や絵や音楽は私たちにとって無意味なものとなってしまいます。作品のよさが分かるためには、創作者の精神的態度(思考やフィーリング)を共有する必要があります。これは普遍的な原理であり、もし私たちがあるものの精神に入らなければ、私たちに関する限り、それは死んでいるも同然です。しかし、もし私たちがその精神に入れば、そのものを存在させたのと同じ質の生命を自分自身に再生することができます。

さて、これが一般的な原理であるならば、なぜ、私たちはそれをより高い領域の物事に適用しないのでしょうか。なぜ、一番高いところにまで適用ないのでしょうか。私たちは、生命の起源である精神そのものに入り、それを生存するための永続的な泉として自分自身の中に再現することができるのではないでしょうか。これは確かに、私たちが慎重に検討するのに値する問題です。

そのものの精神とは、そのものの本来の動きの源となるものです。それゆえ、目の前にある問題は、私たち自身の生命も含めて、私たちの周りに無数にある生命の背後に潜む根源的な原動力の性質とは何なのかということです。科学は、それは物質ではないという根拠を十分に与えてくれています。というのも、科学は、少なくとも理論的には、すべての物質を、普遍的に分散しており、その無数の粒子が絶対的な平衡状態にあるエーテルに還元しているからです。したがって、分散したエーテルの粒子から世界とすべての物質的実体を創り始めた最初の働きは、粒子そのものに由来するものでないことは、数学的見地だけから考えてもわかることです。【訳注:絶対的な平衡状態にある粒子が自ら動き始めて物質的実体やその世界を創ることはあり得ません。】このような物理科学の結論から必然的に導き出されることは、宇宙活動の発現のために特定の領域を分離させ(相対的世界の創造)、その後、各段階が次の段階の発展の基礎を築くという秩序ある進化の連鎖によって、すべての生物とともに物質的宇宙を構築することのできる非物質的な力の存在を認めざるを得ないということです。一言で言えば、私たちは、目的に合わせて手段を選択し適応させる能力を途方もないスケールで発揮し、それによってエネルギーと生命を認識可能な宇宙の進行計画に従って配分する力を目の当たりにしているということです。それゆえ、それは生命であるだけでなく、知性でもあり、そして、知性によって導かれる生命は意志となります。私たちが「精神」というときに意味するのは、この原初の起源となる力のことであり、もし私たちが自分の内に起源の生命の泉としてその力を再現しようとするならば、私たちはこの全宇宙の精神にこそ入らなければならないのです。

さて、芸術の天才の作品の場合、私たちはその作品を生み出す原理を理解する前に、芸術家の創造的な心の動きの中に入っていかなければならないことを知っています。彼の創作表現の真意を知るには、私たちはフィーリングを共有することを学ぶ必要があります。これと同じ原理を、私たちが扱おうとしている「大いなる創造的な心」にも適用できないでしょうか。芸術家の仕事には、始原の神の創造に近いものがあります。文学、音楽、グラフィック(絵画)などは始原的な創造のミニチュア版であり、この点で、構造的なエンジニアの作品や、分析的な科学者の作品とは異なっています。というのも、芸術家はある意味、無から有を生み出すのであり、既にある必然性からではなく、シンプルなフィーリングから出発するからです。この仮説によれば、これは親なる心(神)にも言えることです。なぜなら、創造の原初の動きが起きる段階では、ある方向への行動を他の方向への行動よりも優先させなければならないような既存の条件は存在しないからです。したがって、創造的な衝動がとる方向が、外界の状況によって決定されることはなく、その最初の動きは、完全に始原の心の作用によるものでなければなりません。それは、この心が、自分自身がそうであると感じるすべてのことを実現するための働きかけなのです。

このように、創作のプロセスは、第一に純粋にフィーリングの問題であり、まさに芸術作品の「モチーフ(動機・目的・真意)」として語られるものなのです。

さて、私たちが踏み入るべきは、この始原のフィーリングです。なぜなら、これこそが、その後に続く因果関係の連鎖の本源だからです。では、この精神(神)の始原のフィーリングとは何なのでしょうか。精神は生命そのものですから、そのフィーリングは生命をより完全に表現するためのものでしかあり得ず、それ以外の種類のフィーリングは自滅的であり、それゆえ想像もつきません。そして、生命の完全な表現は幸福を意味し、幸福は調和を意味し、調和は秩序を意味し、秩序は均整を意味し、均整は美を意味します。その結果、生命を生み出さんとする精神固有の傾向性を認識することで、私たちは他の属性も生み出さんとする精神固有の同様の傾向性を認識することができます。そして、より大きな喜び溢れる生命を与えたいという願いは、愛としか言いようがありませんから、私たちは精神の内にある始原の動きであるフィーリング全体を、愛と美として要約することができます。精神は、自身と調和した各生命の中心において、相互関係のもと、美の形を通して自己表現するということです。これは、精神がそれ自体に内在する傾向性の法則に従って、最も内側から最も外側へと拡大する広範な原理を包括的に述べたものです。

精神は、いわば、生命とエネルギーのさまざまな中心において、それぞれ適切な形で映し出される自分自身を見ているのです。しかし、原初においては、これらの姿は、始原の心の中以外には存在し得ませんし、その始まりは、精神的なイメージです。そのため、知性と選択の力に加えて、想像の力も神の心に属するものとして認識する必要があります。そして、これらの力は、愛と美という最初期の内的動機からすでに作用していると推察しなければなりません。

今、私たちが入るべきはこの精神であり、その方法は完全に論理的なものです。それは、あらゆる科学的な進歩がなされるのと同じ方法です。それには、まず、ある法則が自然によって自発的に提供される条件下でどのように働くかを観察し、次に、この自発的な働きがどのような原理を示しているかを注意深く考察し、最後に、同じ原理が、自然によって自発的に提供されるのではない、特別に選択された条件下でどのように作用するかを推論することです。

造船の進歩が私が意味していることのよい一例を示してくれます。昔は、木は水に浮き、鉄は沈むので、鉄の代わりに木が使われましたが、今では世界の海軍は鉄で造られています。よくよく考えてみると、浮力の法則とは、どんなものでもその体積によって排除された液体の量より軽ければ浮くことができるというものであることがわかったのです。今や私たちは鉄が沈むのと全く同じ法則で鉄を浮かせています。なぜなら、人的要素を導入することで、私たちは自然には発生しない条件を提供しているからです。これは「助けなき自然は失敗する」という深遠な摂理によるものです。ここで、一般的な法則を特殊化する同じプロセスを、すべての法則の最初のもの、すなわち、精神そのものの一般的な生命授与の傾向性に適用してみたいと思います。個人的な人格の要素がなければ、精神は一般的な法則によって宇宙的にのみ働くことができます。しかし、この法則ははるかに高い特殊性を認めており、この特殊性は個人的な要素を導入することによってのみ得られます。しかし、この要素を導入するには、個人が、法則の自然発生的または宇宙的な作用の根底にある原理に十分目覚めていなければなりません。では、この生命の原理はどうすれば見出せるのでしょうか。もちろん、死について熟考することによってではありません。ある原理を私たちの要求通りに働かせるためには、その原理が特定の方向において自発的に働いているときの様子を観察する必要があります。私たちは、なぜ、それがそのように作用しているのかを問う必要があります。そして、それを知れば、それをさらに前進させることができます。浮力の法則は、ものが沈むことを熟考して発見されたのではなく、自然に浮いているものの様子を熟考し、なぜそうなるのかを知的に問うことによって発見されたのです。

原理の知識は、その肯定的な作用を研究することによって得られるものであり、これを理解すると、私たちはその作用を阻む傾向にある否定的な条件を修正することが可能になります。

死は生命の不在であり、病気は健康の不在です。ですから、生命の精神に入るためには、それがどこにあるのか、どこにないのかを熟考する必要があります。ここで私たちは「なぜあなたがたは死者の中に生者を探すのか」という古い問いに直面させられます。【訳注:『ルカによる福音書』第24章参照】これが、私たちが宇宙の創造を考えることから研究を始める理由です。なぜなら、生命の精神が、単に死ぬことのないエネルギーとしてではなく、より高い次元の生命へと絶え間なく前進しながら、数え切れないほどの時代を通じて働いていることがわかるのはそこだからです。もし、私たちが神の内に入り、その本質を私たちの中に個人的に再現できれば、それだけで最高傑作が完成することでしょう。これは、私たちの人生を神から直接引き出して実現させることを意味します。そして、もし私たちが今、神の思考または想像力こそが存在の偉大な実体であり、すべての物質的事実はその対応関係に過ぎないことを理解するならば、私たちのなすべきことは、神の思考の中に個々の居場所を維持することであると論理的に導かれます。

私たちは、神の働きは必然的に包括的なければならないこと、つまり、多数の個人を含むすべての型に応じたものでなければならないことを見てきました。この型は、特定の天才のレベルでは「創造的な心(Creative Mind)」の反映であり、普通人間のレベルでは、特定の状況に関連付けられているのではなく、神の絶対的な理想の中に存在する「人間(Man)というイデア」の反映です。

そして、自分自身の概念を、この世的な特定の状況から切り離し、神の描いておられる人間の絶対的な理想像とすることを学ぶのに比例して、私たちは今度は、その理想的な自己概念を神の想像力に逆投映させます。その結果、因果の自然法則によって、この精神的態度を悟った個人は永久に生命の精神に入り、それを自分の内で自然に湧き出る永遠の生命の泉にすることができるようになります。

そして、私たちは聖書に書かれているように、自分自身が「神の似姿」であることに気づくのです。私たちは、創造的プロセスの新しい出発点を提供するレベルに達し、そして、神は、私たちの中に個人的な中心を見つけ、新たにその仕事をし始めます。かくして、普遍的なるものをいかにして個別的な領域で直接作用させ得るかという大問題が解決されます。

人間が「小宇宙」あるいは「宇宙の縮図」であると言われるのは、創造的な精神である神の新たな出発に必要な中心を提供するという意味においてなのです。これは、また秘伝的な「オクターブ」の教義が意味するところでもあります。これについては別の機会に詳しくお話しできるかもしれません。

ここで述べた原理を注意深く考察すれば、そうでなければ不明瞭な多くの事柄に光を当てるものであることがわかり、また後続の小論を理解するための鍵にもなることでしょう。

したがって、これらの原理を自分自身でよく考え、次の論題との関連に注目してください。

第2章「個別的存在」はこちら

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