1-3.創造のプロセス

神は思いひとつで、何もない無の状態から人間を含む全宇宙を創造されました。そのプロセスは、初めに神が発した思いがあり、その思いが神の光に動きを与え、動きを与えられた神の光が素粒子となり、この素粒子が集まって三次元の物質世界における原子となり分子となり、さらに凝集して思いの中身に応じた物として姿かたちを現すというものです。思いの中身を霊的原型、あるいはイデア(理念)といいます。イデアがネコであれば、ネコが、イヌであればイヌが現れます。このプロセスで、まず鉱物から成る三次元宇宙を創られ、次に植物と動物を創られ、最後に人間を創られました。

ところで、霊的原型は素粒子レベルであれば即座に現れます。例えば、あの世の霊人がネコという概念に思考を集中すれば、即座にネコが目の前に現れます。しかし、三次元のこの世ではすぐに現れることはなく、一定の時間を要するようになっています。素粒子が原子、分子となり物体として現れるにはそれなりの時間がかかるということです。この三次元世界における物質化の法則をトーマス・トロワードは「成長の法則」と呼んでいます。

なぜ、この世では思考がすぐに物質化しないのかといえば、それは自然の摂理によるとしかいいようがありませんが、自然の摂理の奥には当然のことながら神の思いがありますので、ある程度の推測は可能です。その推測とは、この世の人間の生活環境を適切に維持し、この世を人間の魂修行の場として相応しいものにするためではないかというものです。この推測が当たらずとも遠からずと思われるのは、もしこの世の人間の思考がすぐに現象化したらどうなるかを考えてみればよく分かります。

例えば、念力の達人にとっては可能なことかもしれませんが、普通一般の人が、「お金よ出でよ」という思いを発したとたんに現金が物質化して現れたら、この世の経済システムが崩壊してしまいます。また、藁人形などを使った呪詛がすぐに効果を現したりしたら、社会が不安と混乱に陥り、この世が安心して生活できる場ではなくなってしまいます。さらに、少し視点は異なりますが、人の心の中身(思考あるいは想念)は自ずと姿かたちや顔に現れるようになっています。その証拠に、絵巻物や物語の挿絵などに描かれているとおり、あの世の天国といわれる世界の住人はみな穏やかな外観と表情をしています。しかし、地獄界の住人はそうではありません。見るからに天国の住人とは違った異形の相をしています。しかし、この世では肉体という物質で覆われているために、心の中身がストレートには表に現れません。その人の思考や信念、価値観が相貌に表れるまでにはそれなりの時間がかかりますし、また、その相貌もあの世とは異なり、いかにも善人、あるいはいかにも悪人といった極端なものではありません。三次元物質界とはこのような特殊な世界であるからこそ、多種多様な思考や価値観の持ち主がお互いをあまり気にすることなく共存でき、お互いに影響し合い、学び合うことができるようになっているわけです。すなわち、効率のよい魂修行の場になっているということです。これに対してあの世は波長同通の法則により、似た者同士が集って住み分けしている世界ですから、ある意味刺激が少なく魂修行の場として相応しくないのです。

ちなみに、あの世の住人の誰もが思いでモノを現象化させることができるわけではありません。思いがモノの始まりという真理を知らない段階の人はそもそもできませんし、その真理に対する理解の深さ、確信の度合いによっても思いの現象化のレベルはまちまちです。

さて、「創造のプロセス」の概要は上述のとおりですが、私たちが意図的に願いや希望を実現していくうえで留意すべきことは、①思いを発する際にこの世的な条件や状況をもとに発想しないこと、②思いを発した後は成長の法則を信頼し任せて焦らないこと、そして、③自分がなすべきこの世的な努力をまじめになすことの3点です。

トーマス・トロワードは①の点について次のように述べています。

「もし私たちの思考がこのような創造的な力を持っているのであれば、なぜ私たちの人生は悪条件に阻まれるのでしょうか。

その答えは、これまで私たちが思考力を逆向きに使っていたからです。私たちは、外的事実から思考の出発点を得ており、その結果、同じような性質のものを繰り返し創り出しています。そうする限り、私たちが既存の有限の軛(くびき)から抜け出すことはありません。また、潜在意識は暗示に敏感であるため(『エジンバラ講義』第5章参照)、私たちが真理を知らない人たちから非常に強力な否定的な影響を受ければ、その唯物的な信念やより身近な社会環境の即物的思考の流れが、私たちの逆転した考えをさらに強固なものにします。したがって、このようにして私たちの思考の創造力が間違った方向に使われたために、私たちが不満を抱くような制約された状況や人生環境が生じているのであり、それは驚くにはあたりません。

この状況からの脱出は、思考方法を逆転させ、外的な事実を出発点にするのではなく、思考の力を出発点にすることです。私たちはすでにこの方向への二つの大きなステップをクリアしています。第一は、今出現している宇宙全体は、その起源が神の思考の力以外のどこにもあり得ないことを認識していることであり、第二は、私たち自身の思考の力は、神の思考の力と同質のものでなければならないことを理解していることです。」<『The Dore Lectures on Mental Science』第6章「思考の創造的力」の私訳より>

思考の力を出発点にするとは、自分の否定的思考が今現在の自分の不満足な条件や状況として現れているのですから、この現状を変えたいのであれば、自分の思考を肯定的なものに変えることから始むべしということです。例えば、自分の否定的な思考が病気として現れているのですから、この病気を治したいと思って病院に行ったとしても、否定的な思考を変えない限りは完治はしないということです。完治への道は、否定的思考を消し去るか、あるいは肯定的思考で否定的思考を上書きするしかないということです。

②の成長の法則についてのトーマス・トロワードの注意喚起は次のとおりです。

「成長の法則を正しく理解することは、精神科学を学ぶ者にとって最も重要なことです。自然について認識されるべき偉大な事実は、それが自然であるということです。私たちは自然の秩序に背を向けることがありますが、長い目で見れば、ホラティウス(古代ローマ時代の詩人)の言うように、私たちが自然の秩序をたとえ熊手で追い出したとしても、それはやがて裏口から戻ってくるものです。自然の法則というものは、そのもの自体に備わっている生命力による成長の原理なのです。このことを最初から理解していれば、無理やり物事をそれ本来の自然の成長に反したものにしようとすることで、自らの仕事を台無しにすることはありません。だからこそ、聖書は「信じる者は急いてはいけない」という言葉で、成功は成長の普遍的な法則を認め、逆らわないことで得られるという大自然の原理を説いているのです。

私たちが霊的原型と呼ぶことにした物事の胚芽に注入する生命力が大きければ大きいほど、それが早く発芽するのは間違いありませんが、これは単に、より明確な概念の方が、弱弱しい概念よりも多くの成長力を種子に注入することができるからなのです。私たちの失敗はいつも、成長の法則への不信感に帰着します。私たちは外からの働きかけで発芽を早めることができると空想して、焦りや不安に駆られたり、時にはひどく間違った方法を採用したり、あるいは希望を捨て、自分の植えた種子の発芽力を否定したりします。これらはいずれも結果は同じです。というのも、いずれの場合も私たちは自分の願望とは反対の性質を持つ新しい霊的原型を形成していることになり、それが最初に形成されたものを中和し、崩壊させ、それに取って代わることになるからです。法則はつねに同じです。その法則とは、私たちの思考が霊的な原型を形成し、それをそのままにしておくと、外部の環境の中でその霊的原型が形を取って現れるというものです。唯一の違いは、私たちが形成する原型の種類にあり、悪も善と全く同じ法則によって私たちにもたらされます。」<『The Edinburgh Lectures on Mental Science』第6章「成長の法則」の私訳より>

③の自分がなすべき努力についてトーマス・トロワードは次のようにいっています。

「ここで、多くの人が現象化のレベルを下げてしまいがちです。彼らは神の主観的または創造的なプロセスを理解してはいますが、私たちの客観的または建設的なプロセスがそれに続いていく必要があることを理解していません。その結果、彼らは非現実的な夢想家となり、願望の完全な外在化に至ることがありません。神の創造的プロセスは、外在化のための材料と条件を私たちの手にもたらしますが、その後、私たちは勤勉にこの世的な常識でもってそれらを利用しなければならないのです。神は、材料は提供してくれますがディナーまでは作ってくれません。この部分は私たち個人が担う役割であり、これによって私たちは、やみくもに神のエネルギーに頼み切りになるのでもなく、また神のエネルギーに理不尽に支配されるのでもない、神のエネルギーのよき分配センターとなれるのです。」<『The Dore Lectures on Mental Science』第3章「新思想と新秩序」の私訳より>

ここの意味は、私たちは願望達成にあたって、神のエネルギーを引き寄せるための最初の思考を発しさえすれば、後は何もしなくてよいのでもなく、また神は個人の主体性をまったく無視して一方的に現象化したりはしないということです。私たちの願望達成あるいは自己実現は神との協業であるということです。

私たちが現象化の最初の原因(cause)、すなわち第一原因となる思考を発すれば神(潜在意識)が現象化に向けて働きだして、現象化の兆しがこの三次元世界に現れ始めます。これをトーマス・トロワードは条件あるいは状況(condition)と呼んでいます。そして、この兆しに対して私たちが反応して新たな思考を発します。これを第二原因といいます。するとこれに反応して神(潜在意識)が次なる条件、すなわち第二条件なるものを現わします。この思考①→条件①→思考②→条件②→思考③→条件③・・・を繰り返して最終的な現象化、すなわち結果に至るということです。これが神との協業であり、個における創造のプロセスといわれるものです。このように三次元世界においては原因即結果ではなく、原因→条件あるいは状況→結果というように原因と結果の間に条件あるいは状況という、成長のための中間工程があるということです。これを仏教では「因縁果報」と説いています。縁の部分が条件あるいは状況(condition)とこれに対する次なる思考に当たります。直接原因(思考①)と間接原因(思考②、③、・・・)があって結果に至り、その報いを得ることになるということです。トーマス・トロワードはこの縁の部分をおろそかにしてはいけないといっているわけです。

この創造のプロセスについてはトーマス・トロワードの代表作『The Edinburgh Lectures on Mental Science』の第9章が非常に参考になります。章題は「Causes and Conditions(原因と条件)」であって、「Causes and Effects(原因と結果)」ではないことに着目してください。原因を結果に結びつけるには中間工程における私たち人間の適切な対応の努力が何よりも大事であることを示唆しています。

2-0「否定と肯定(否定から肯定は生まれない)」へつづく

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