5-4-1-13.第13章「潜在意識とのコンタクト」

これまでの講義で、私たちにとって潜在意識への対応が計り知れないほど重要であることがある程度認識できたと思います。個人的な規模であれ、普遍的な規模であれ、潜在意識に対する私たちの関係は、私たちの人生においてすべての鍵となります。

認識されることがなければ、潜在意識は個としてのスケールでは私たち個人の心と身体のすべての作用を自動的に司どっており、普遍的スケールでは、それは私たちを徐々に、さらなる進化へと向かわしめる静かな力として働いています。しかし、この潜在意識の働きを知的に認識することができれば、私たちはその潜在意識を自分自身のあらゆるもののために活用することができます。潜在意識との関係が深まれば深まるほど、身体の健康であれ生活環境(経済的状況や人間関係)であれ、これまで自然の成り行きと考えられていたものが自分のコントロール下に置かれるようになり、ついには自分に関わるすべてをコントロールできるようになります。これは途方もない福音であり、それゆえ、潜在意識にどのようにして実際にコンタクトするかということが、大変重要な問題となります。

さて、そのための正しい方向性を示す手掛かりは、これまでお話してきた潜在意識の「非人格性」にあります。それは人格の要素がないという意味での非人格性ではなく、また、各個人に内在する主観的な心(潜在意識)が個としての感覚を持たないという意味での非人格性でもなく、各個人の客観的な心(表面意識)が「自分の人格に関わる外部とのつながりをまったく認識することなく、自分をそれらから全く独立した存在であるとみなすような自己認識を持つ」という意味での非人格性です(訳注:三次元の相対的世界における捉われや関わりを離れた、無我なる境地における非人格性のことと思われます)。

私たちが潜在意識に触れようとするならば、私たちはそれ自身の地平(潜在意識が存在する場)でそれに会わなければなりません。潜在意識は演繹的な(三次元的な相対世界のあれこれには一切関わらない)立場でしか物事を見ることができません。それゆえ、外面的(三次元的で相対的)な人格の持ち主である私たちが物事を見たり考えたりする帰納的な(三次元的な相対世界のあれこれに基づく)視点に立つことはできません。したがって、私たちが潜在意識とコンタクトしようとするならば、潜在意識を外面的で非本質的な(三次元的で相対的な)レベルに引き下げるのではなく、我々自身を内面的で本質的な潜在意識の(三次元を超えた絶対的な)レベルにまで上昇させなければなりません。では、どうすればこれができるのでしょうか。二人の著名な作家に答えてもらいましょう。

ラドヤード・キップリングは『少年キム』という物語の中で、少年キムが「キムとは誰か」という自問を繰り返すことで、時々自分の個性を喪失していたことを語っています。(この言葉を繰り返すことで)少年キムは徐々に自分の個性が薄れていき、より壮大で広い命溢れる世界に移入していく感覚を経験します。そこでは、キムの存在は知られてはいませんが、彼自身の個性は残ったままで、彼の意識は想像を絶するほどに高められ、拡大されていきます。ラドヤード・キップリングの息子はその著書『テニソンの人生』の中で『少年キム』を書いた父親が時々少年キムと同様の体験をしたことがあると語っています。私たちは、相対的なものから身を引くのとまったく同じ割合で、絶対的なものに触れることができるようになります。それらは互いに反比例して変化します。

潜在意識に触れるためには、自分自身を「純粋な存在」、つまり外面を内面から支えている存在として考えるようにしなければなりません。それができれば、私たちは「純粋な存在」の本質的な性質は善でなければならないことに気づかされます。(自分の内に在って自分を生かしめている)「純粋な存在」とは本来「純粋な生命」であり、どのような形で現れようとも、純粋な生命にとって有害なものを望むことはできません。それゆえ、私たちの意図が善念に満ちた純粋なものであればあるほど、私たちは自分自身をよりたやすく自分の主観的な心(潜在意識)と結びつけることができます。それは、私たち個人の主観的な心がその特定の現れであるところの、かの大いなる主観的精神(万物創造の根源である神)に対してもまったく同じです。

実際の実践面においては、まず主観的な心(潜在意識)に伝えたい考えを客観的な心(表面意識)で明確に形成することから始めます。この考えをしっかりと固めたら、問題となっているもの(潜在意識に伝えたい考え)以外の外面的な人格に関連するすべての事実(自分に関わる三次元的な相対世界のあれこれ)を忘れるように努め、主観的な心(潜在意識)を独立した存在であるかのように見なして心の中で語りかけ、自分がしてほしいことや信じていることを主観的な心(潜在意識)に印象づけるのです。

この方法については誰もが自分流のやり方を確立しなければなりませんが、シンプルで効果的な一つの方法は、主観的な心(潜在意識)に向かって「これが、私があなたにしてほしいことです。あなたは今、私の代わりになって、持てる力と知性を総動員して、あなた自身が私以外の何者でもないと考えて、それを実行します」と言うことです。この後は、自分自身の客観的な人格の認識に戻り、法則上、主観的な心(潜在意識)は、それに伝えられた考えが、客観的な心からの反対思念の繰り返しによって妨げられない限り、伝えられた考えを完璧に遂行することを完全に確信して任せるのです。

この理論は単なる空論ではなく、多くの人々の経験によって日々証明されている事実です。これらの事実は理論に合うように捏造されたものではなく、一方、この理論の方は事実を注意深く観察することによって確立されたものです。

ところで、主観的な心(潜在意識)と客観的な心(表面意識)の関係にはこのような法則があることが理論と実践の両面で証明されていることから、私たちは非常に重大な問題に直面することになります。それは、「個人の主観的な心に通用する法則が、普遍的な心(神)に通用しない理由はあるか」です。そして、その答えは、「ない」です。すでに(第5章で)示したように、普遍的精神は、その普遍性(絶対性・無限性・単一性)ゆえに、純粋に主観的でなければならず、(その単一性から)部分(個人の主観的な心)の法則であるものは全体の法則でもあるはずです。火の性質は、燃焼の中心が大きくても小さくても同じです。ということで、個人の主観的な心(潜在意識)について学んだことを神に適用した場合、どのような結果になるかを考えることで、この講義を次のように締めくくることができます。
(訳注:これまで、私たちの意識は個人の主観的な心(潜在意識)に焦点が向いていましたが、実際に創造作用を行う(引き寄せの働きをする)のは実は(個がその一部であるところの集合的な)普遍的な主観的精神ですので、ここから先、焦点を向けるべきは神ということになります。)

私たちは、すでに主観的な心(潜在意識)に関する三大事実は、創造的な力であること、暗示にかかりやすいこと、そして演繹的な方法以外では働けないことだと学びました。この最後の点は非常に重要なポイントです。なぜなら主観的な心(潜在意識)の働きは前例などによって何ら制限されないことを意味しているからです。帰納的な方法は、すでに存在するパターン(前例)から推論される原理に基づいて作用するため、せいぜい古いものを新しい形で作り出すだけです。しかし、演繹的方法は、原理の本質あるいは法則に従って作用し、なすべきことの理解のために以前現れた具体的なものに頼ることはありません。この後者の働き方は、必然的に無から万物を生み出した神のそれでなければなりません。なぜなら、創造の原理(創り方)を学べるような既存のパターン(前例)が存在しなかったため、もしその方法が演繹的ではなく帰納的であったならば、パターン(前例)がないため何も生み出すことができなかったはずだからです。かくして、この必然性により、普遍的精神(神)は演繹的に作用しなければなりません。つまり、これまでの論考によって、個人の主観的な心(潜在意識)に当てはまると分かった法則に従って作用しなければなりません。それは前例にとらわれないがゆえに、その創造力は無限であり、客観的な心ではなく、本質的に主観的な心であるため、それはまた客観的な心からの暗示に完全に従います。

さて、個人的であれ普遍的であれ、主観的な心を支配する法則の同一性により、暗示によって個人の主観的な心にある種の個性を印象づけることができるのと同様に、神にもそれが可能であり、そうすることができるということは、当然の推論となります。そのため、私は、心の最も内奥で熟考される人格の質に注意を喚起しました。すなわち、神にどのような性格を与える(伝える)かは、熟考すべきすべての事項の中で最重要になります。というのは、私たちと神との関係は純粋に主観的なものであるため、神は、私たちが神に印象づけた性格を必ず私たちに示すことになるからです。言い換えれば、それはまさしく私たちが信じたとおりのものになります。(訳注:ここからは、方便としての個人の主観的な心(内なる神・神性・真我)ではなく普遍的で主観的な心(神)に意識を向けることが促されています。)

これが、聖書の中で2回繰り返されている「純粋な者と共には、あなたは自分が純粋であることを示し、不誠実な者と共には、あなたは自分が不誠実であることを示す」(詩篇xviii:26、サム11:xxii:27)という驚くべき一節の意味であり、この言葉が神の働き(波長同通の法則・引き寄せの法則・思いの現象化)に向けられたものであることは文脈からも明らかです。霊的な王国は私たちの心の中にあり、私たちがそれを実感することで現実のものとなります。「人が心の中で思うように、その人はなる」というのは、神を内包する私たちの人生における不変の法則であり、言うなれば、私たちの内的な主観的状態(潜在意識に伝わった私たちの意識の中身)が唯一の真の現実であり、私たちが外的な現実と呼んでいるもの(人格、人間関係、生活環境)は、その客観的な対応関係にすぎないのです。

神は私たちがそれに対して抱く概念に正確に従います。そして、この対応関係が私たちの人生のすべての基礎となるという真理を徹底的に理解するならば、神に対して私たちが抱く概念の重要性はどんなに評価しても評価し過ぎるということはありません。

この真理を勉強していない人には、ほとんど、あるいは全く選択肢はありません。彼らは他の人から受けた慣習に従って概念を形成していますが、自分自身で考えることを学ぶまでは、その慣習の結果を甘受せざるを得ません。自然法則には例外は認められず、慣習的な考えがどんなに不完全であっても、それを受け入れることで神に反応が起こり、それが個人の意識的な心や外面的な生活に反映されることになります。しかし、その法則を理解している人は、もし、そこから可能な限りの利益を得ることができなければ、自分自身を責めるほかありません(法則を利用するしないは本人の自由です)。

世界で最も偉大な精神科学の教師(聖書)は、私たちの指針となる十分に明白なルールを示しています。この真理の深みは、それを実際に知っている人だけが理解できるものですが、その知識でもって、イエスは、学びのない聴衆、つまり彼の話を素直に喜んで聞いた一般の人々に、神を、すべての人を優しく慈しみ、悪人にも善人にも同様に自然の恩恵を与える慈悲深い父として思い描くよう告げました。また彼は、神は、その善き意図を認める者に対しては特別な世話をするものであると述べました。「あなたの頭の毛一本一本にまで番号が振られている」、「あなた方はたくさんの雀よりも価値がある」(訳注:神はすべてをご存じであり、人間は神を信じることによって単なる存在を超えた価値ある存在となるという意味です)。当時、祈りは、目に見えない至高の存在に対して、疑いや恐れをもってではなく、確実な答えを絶対的に確信してなされるべきであり、その力や私たちのために働こうとする意思に(人間心で)制限を設けるべきものではありませんでした。しかし、このように認識していなかった人々に対しては、大いなる心(天の父)は必然的に敵対者であり、彼らが最後の一銭を支払う(大いに反省し、回心する)まで、彼らを刑務所に投獄するのです。このようにして、すべての事例において、イエスは、この見えない力の彼らに対する態度と、彼ら自身の目に見えない力に対する態度とが正確に対応していることを、聴衆に印象づけたのです。このような説法は、単なる擬人化ではなく、現在、精神科学と呼ばれているものの最も深い真理を、文字を持たない大勢の無学の民の知的能力に合わせるためのものでした。そしてその根底にあるのは、あらゆる形で無限に広がる自然の中に隠された神の神秘的な本質です。

純粋な生命と知性として、それは善である以外にはありえず、悪の意図を持つことはできません。したがって、意図的な悪はすべて、私たちを神と対立させ、その導きを拒むことになり、その結果、私たちは自分自身で道を模索し、宇宙に対して単独で戦いを挑むことになりますが、その勝算の確率はきっと私たちにとって余りにも大きな代償をもたらすものとなるでしょう。しかし、その対立は決して神の側から出たものではないことを覚えておいてください。神の私たちに対する立ち位置は常に私たちの神に対する態度の反映なのです。

したがって、聖書には、神の善の法則に意識的に反対し続ける人々に対する脅しがたくさん書かれていますが、一方で、態度を変えて、知り得る限り善の法則に従うことを望むすべての人には、即座に完全な赦しを与えるという約束に満ちています。自然の法則は執念深く作用したりはしません。あらゆる神学的な決まり文句や伝統的な解釈を通じて、私たちは私たち自身の存在に関わる最高の法則を理解することができます。エゼック書xviii:22にある、もし私たちが悪の道を捨てれば、過去の罪は二度と私たちに言及されることはないという文言もこの自然法則の作用の何たるかを示しています。私たちが取り扱っているのは主観的な存在(神)の偉大なる諸原則であり、私たちがそれらを過去誤って使用したとしても、それらが本来持っている作用の法則が変わることはあり得ません。もし、過去におけるそれらの使い方が、悲しみや恐れ、トラブルをもたらしたのであれば、「原因を逆にすれば、結果も逆になる」という法則に頼ればよいのです。つまり、私たちがなすべきことは、単に精神的な態度を逆にして、新しい態度で行動する努力をすることです。新しい精神的態度で、その新しい精神的態度にもとづいて行動する真摯な努力が必要不可欠です。というのも、ある方法で考え、別の方法で行動することはできないからです。しかし、思うように行動できないことが繰り返されても、落胆してはいけません。真摯な意思こそが本質的なものであり、それがやがて、現在はほとんど克服できないように見える習慣の束縛から私たちを解放してくれます。

最初の一歩は、神を自分にも他人にもそうあってほしいと願う理想の姿として思い描くことを決意し、そしてこの理想を不完全ながらも自分の人生で再現しようとすることです。このステップを踏めば、神が私たちにすべての善を提供し、すべての危険から私たちを守り、すべての助言で私たちを導いてくれる、常に存在する私たちの友人であると、快く見なすことができるようになります。神についてこのように考える習慣が徐々に身についてきますと、これまで考察してきた法則に従って、神はますます私たちにとって個人的に身近なものになり、私たちの欲求に応えて、その固有の知性が、私たちの真理を知覚する力を格段に高めてくれます。それは、真理を単に知的にのみ探求した結果得られる内容をはるかに超えるレベルのものです。

同様に、もし私たちが神を、私たちの必要をすべて満たすために献身的に働いてくれる大いなる力であると考えるならば、私たちはこの性質をも神に印象づけることになり、主観的な心の法則によって、それは私たちが印象づけたとおりの働きをなしてくれるでしょう。そして、私たちが、一般的なことなどではなく、何か特定の利益を自分自身に引き寄せたいのであれば、同様の方法で神に私たちの願望を印象づければよいのです。また、もし私たちが、さらに喜びに満ち、喜びを他に与える人生のより一層の拡大に向けて、人格を高め、力を発揮する、偉大で永続的なものを求めているのであれば、それにも同じ方法が有効です。その願望の暗示を神に伝えると、主観的な心と客観的な心の関係の法則により、これも満たされます。

かくして、哲学の最も深い問題は、私たちを古い法則を表す言葉に立ち戻らせます。「求めよ、さらば与えられん。求めよ、さらば見つけられん。ノックせよ、さらば開かれん」です。これは、私たちと神との関係についての自然法則の要約です。精神科学が私たちの人生を思い通りにすることを可能にするというのは、決して独りよがりな自慢話などではありません。私たちは今いる場所から出発しなければなりませんが、神と自分の関係を正しく認識することによって、私たちは自分が望むどんな条件をも徐々に手にすることができるようになります。ただし、まずは自分自身を習慣的な精神的態度において、その条件に対応し得る人格にする必要があります。というのも、私たちは対応の法則を決して乗り越えることはできず、外在化は常にそれを生み出す内部の条件と一致するからです。そして、この法則には限界というものはありません。

今日(きょう)、この法則が私たちのためにできることは、明日もできるし、明後日も、明々後日もできます。この法則に制限があるなどと思ってはいけません。限界を信じることは、限界を引き起こす唯一の原因です。なぜなら、その信念が創造の原理(神)に限界を印象づけるからです。この過てる信念を捨て去ることに比例して、私たちの世界は広がり、より有意義な人生とより豊かな祝福が私たちのものになることを忘れないでください。

そして、私たちは自分自身の責任も自覚しなくてはいけません。訓練された思考は、訓練されていないものよりもはるかに強力です。したがって、精神科学に深く入り込めば入り込むほど、ほんのわずかな悪意を表す思考や言葉にも注意を払わなければなりません。噂話や陰口、卑屈な笑いなどは、精神科学の原則とは一致しません。一方、私たちのごく小さな善意の考えには、善の種が含まれており、やがて必ず実を結びます。これは単なる道徳的なお説教などではなく、精神科学の重要な教訓です。

私たちの潜在意識は、私たちが確立した精神的な習慣からその色調を得ており、時折、肯定したり否定したりしても、それを変えるには十分ではありません。したがって、私たちは、自分が身体、心、生活環境のいずれかの状態で再現されることを望む色調を育てつづけなければなりません。

この講義で私が目指したのは、実践的な特定の方法を教えることではなく、受講者の皆さんが自分で方法を決められるように、精神科学の大まかな一般原則を説くことでした。人生のあらゆる場面で、本の知識は手段にしか過ぎません。本は、どこを見て、何を探せばよいかを教えてくれるだけで、実際に探すのは自分です。したがって、科学の原理を本当に理解したのであれば、他人の方法に従うよりもよい結果が得られる自分独自の方法を作り出すことです。他人の方法はその人にはその通りの成功をもたらします。なぜならそれはその人の方法だからです。自分は自分であることを決して恐れてはいけません。もし、精神科学が自分らしさを教えなければ、それは何も教えないのと同じです。自分らしく、もっと自分らしく、さらにもっと自分らしくが、あなたの欲するものであるべきです。真なる自己とは、常に神と直結している内なる高次の自己を含むものであるという知識をしっかり持ちつづけてください。

ウォルト・ホイットマンが言っているように、「帽子とブーツの間にあなたのすべてが含まれているわけではありません」。

「精神科学に関するエジンバラ講義」の人気の高まりを受けて、私は現版に身体、魂、精神の3章を追加しました。この3章が3つの要素の相互作用の原理をより明確にすることで、皆さんのお役に立つことを期待しています。

第14章「肉体」はこちら

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