主観的な心(潜在意識)は客観的な心(表面意識+深層意識)からの暗示に従順であることを見てきましたが、主観的な心が客観的な心に働きかけることもあります。個人の主観的な心は、この個人の最も内奥にある自己であり、その第一の働きは、それが基盤となっている個体の維持です。また、純粋な精神であるため、(空間と時間のない)普遍的かつ永遠の領域につねに存在しており、その結果、低次の心(客観的な心)が距離的、あるいは時間的制約から認識し得ない事柄を知らせることができます。
時間と空間の条件がないということは、論理的に宇宙のすべてのものを見通すことになるので、主観的な心の知覚力には限界がありません。したがって、なぜ主観的な心は客観的な心にすべての点について絶えず情報を与えないのかという疑問が生じます。そして、その答えは、客観的な心が与えられた指示を認識できるように十分に訓練されれば、そうなるだろうということであり、この訓練を行うことが精神科学の目的の一つなのです。
個人全体を支える主観的な心の立場をよく認識すれば、客観的な心の自発的な動きと思われていることの多くは、そのことに気づいていなくても、主観的な心が客観的な心を正しい方向に促そうとしていることの現れであることを疑うことはできません。
個人にとっての緊急事態が発生しようとしている場合や、まだ知られていない何らかの理由で、客観的な心が主観的な心とより密接に連絡を取っているような場合、しばし、内なる声が強く持続的に聞こえることがありますが、そのような場合には、その声に耳を傾けるのが賢明です。紙面の都合上、内なる声についての例を挙げることは割愛しますが、読者の皆さんもきっとそのようなことを経験されることでしょう。
直観を理解し、それに従うことの重要性は、いくら強調してもし過ぎることはありませんが、内なる声を無視することと根拠のない空想に身を任せることとの間で中庸を保つことが実際上非常に困難であることを私は率直に認めます。最良の手引きとなるのは、個人的な経験から得られる知識です。この知識は、真と偽を見分けることができる、一種の内的なセンサーの獲得へと徐々に導いてくれます。また、このセンサーの感度は、真理を心から望み、その源である主観的精神を認識することで高まっていくように思えます。
直観に関して筆者が自らの経験から導き出すことができる唯一の一般原則は、あらゆる状況が特定の行動への方向性を示唆しているにもかかわらず、それに従うべきではないという感情が根強く残る場合、大抵は、客観的に知られている事実からはそれが正しく見えたとしても、その時点では客観的意識が知り得ないことを、直観力は認識できていたということです。
もう一つの原則は、どんなことでも最初に感じた印象は大体正しいという事実です。客観的意識がその課題について考え始める前は、それは上からの光をはっきりと反射する滑らかな湖の表面のようなものです。しかし、客観的意識が外的状況をあれこれ考え始めるや否や、それらもまた湖面に光を投げかけるため、当初の印象はぼやけて、もはや正しい認識はできなくなります。このように最初の印象はすぐに失われてしまうため、その後の客観的意識のさまざまな考えを検証するために、それらを注意深く観察し記録しておく必要があります。
しかし、直観のような内面的な働きを厳格に原則化するのは不可能なことであり、特定の事例が発生したときに注意深く記録すること以上に、おそらく皆さんにとっての最善の方策は、直観という主題全体を引き寄せの法則の一般原則に含めることです。特に、この法則が、これまで述べてきた普遍的精神の個人的な特性とどのように相互作用するかを理解しているのであればなおさらです。(訳注:「引き寄せの法則」は「波長同通の法則」であり、主観的精神と客観的精神の相互作用を包摂する法則とみなすことができます。)