精神科学の実践的な仕事の基礎を築くためには、受講者の皆さんは個としての存在に分化する前の未分化な普遍的精神(神・神の光・神の生命・霊子)の知性が何を意味するのかを明確に理解するよう努めなければなりません。私たちは、今、個性とは別に神の知性という概念がいかなるものかを把握したいと思っているのですが、この神の知性という概念に慣れるまでには、少し時間がかかることと思います。過去、神の知性というものを正しく認識できなかったことが、世界に苦しみをもたらしたあらゆる神学的な誤りを生み出し、人類の真の発展を遅らせた原因の中でも突出したものとなっています。しかし、この概念を言葉で正確に伝えることは、おそらく不可能であり、この概念を言葉で定義するには限界があります。これは定義というよりは感覚的な問題です。しかし、この知性についての偉大な真実を把握しようとするのであれば、どの方向においてそれを感じ取るべきかを知るために、私たちは何らかの努力をしなければなりません。
その努力とは、個人と他の個人とを区別する“自己性(自我意識)”というものを持つことのない人格を認識しようとする試みです。「私は私であるがゆえに、私は他の者ではない」。これが個の自己性の定義ですが、これは必然的に有限性を意味します。なぜなら、他者を認識することは、同時に自己が消え、他者が始まる領界を肯定することになるからです。(神から分化してきた私たちではありますが)このような自己認識の仕方は神に起因するものではありません。なぜなら、神にとって、自分が消え、他の何かが始まる領界を認識することは、自分が普遍的でないことを意味することになるからです。普遍性とはすべてのものを含むことであり、神の知性が自分の外部にあるものを認識することは、すべてのものを含む存在である自分自身を否定することになります。それゆえ、その知性の本質が何であれ、いかなる規模であっても神は個の人格としての自己認識の要素をまったく持たないとためらうことなくいうことができます。このように考えると、すべてのものに浸透(内在)している神とは、自然界のすべての存在を生み出す壮大な非人格的な生命の原理であることが一目瞭然です。ただ、個としての自己意識がまったくないという意味での、神の絶対的な非人格性をあまり強く主張することはできません。(訳注:その理由は神の非人格性とはどのような人格をも持つことができるがゆえの非人格性であるからです。)
それ自体の個性や人格を持つことのない神に個性や人格を持たせることは、いつの時代も宗教や哲学の基盤をむしばむ二つの大きな誤りの一つですが、その一方で、もう一つの誤りは、その絶対的な非人格性を盾にとって神に対して知性を否定することです。この誤りに対する答えは、昔から変わらず、「目を作った者は見てはいけないのか。耳を植えた者は聞いてはいけないのか。」というシンプルな問いかけの中にあります。あるいは、よく知られている諺を使えば、「鞄の中に入っていないものは取り出せない」ということです。(訳注:知性を創ったものが知性を持っていないはずはないということであり、神に知性がなければ、神から生じた個別的な存在に知性があるはずはないということです。)
以上のことより、私たち自身が個別的な知性の中心であるという事実は、これらのすべての中心を包含している無限の存在である神は、無限の知性を持ったものでなければならないということの証拠であり、かくして、人格を構成している二つの要素、すなわち知性と意志は神の無限の知性に由来しているといえます。したがって、この全宇宙に普遍的に存在している神は、霊的原始物質のようなものと考えることができますが、それは個としての自己認識なしに、人格のあらゆる性質を持っているに違いないという結論に達します。
なお、「personality(人格=知性+意志)」という言葉は、通常の会話の中では「個性」という考えと結びついてしまっていますので、新しい言葉を造って、神の持つ人格のあらゆる性質のことを「personal-ness(人格性)」と呼んだ方がよいかもしれません。私たちは、神がすべての空間に広がり、すべての顕在化した物質に浸透していること、そして、それはどこにあっても、そこにはそれ自身のすべてが含まれていることを理解しなければなりません。そう理解すると、私たちは、上も下も、そして周りも未分化で知的な「生命」、すなわち神に取り囲まれていることがわかります。それは、自分自身の心と身体にも浸透しており、他のすべての存在にも浸透しています。
この言葉の真意を理解していくと、次第にその意味するところの壮大さが見えてきます。それは、自然界のすべてのものの内部に神の「人格性」が浸透しており、それは知性、応答性、表現力の無限の可能性を秘めていて、私たちがそれを認識することで活性化されるのを待っているということです。その受動的な性質上、それは私たちがそれを認識することによってのみ、私たちに応えることができます。もし私たちが、世界を支配しているのは偶然以外の何ものでもないとしか思えないような低い知的レベルにあるならば、神は、私たちに、明瞭な秩序のない偶然の集積を現すに過ぎないでしょう。もし私たちが、このような偶然の集積はカオス(混沌)を生み出すだけで、秩序ある宇宙を生み出すものではないことがわかるほどに知的に進化すれば、私たちは神の法則がすべての基礎となる原理であることを知るに至ります。今や私たちは、単なる偶然の世界から、明確な宇宙の原理を知ることによって確実に何が起きるかを予見できる世界へと大きく前進しました。
しかし、ここからが正念場です。宇宙の法則は厳然としてありますが、私たちはそれを十分には知らず、失敗を繰り返すことで得られる経験によってのみしか、この法則を知ることができません。一歩一歩がいかに苦しく、進歩がいかに遅いことか。目に見える世界だけでなく、目に見えない世界も含めて、宇宙の法則をすべて把握するには、何年かけても足りません。そして、自然が無限である以上、無限の知識を個人の知性でどうにかして手に入れなければならないというパラドックスに遭遇し、問題の解決策を見つけるまで、容赦なき法則の鞭の下で、絶え間ない苦難の道を歩まなければなりません。「すべての知識を手に入れるまで歩み続けることなどできないのではないか」という疑問が聞こえてきそうですが、人々は “無限”が何を意味するのか理解していないし、そのような質問をすることもありません。
無限とは、限りなく、尽きることのないことです。あなたが最も広大な空間を想像し、それを“無限”なるもので満たしたとして、その後その“無限”なるものに残っているものは以前とまったく同じ“無限”なのです。これは、数学者にとっては非常にわかりやすい表現です。また、宇宙の法則をよく知っている者とそうでない者との差がいかに大きくとも、両者とも宇宙の法則を極めるにはまだまだ程遠いという点では同じです。
法則の普遍的な支配は壮大な真理であり、それは古代のソロモンの神殿の入り口に立っていた2本の柱に象徴される、宇宙の2本の大きな柱の1つです。それはヤチン(光・愛の象徴)ですが、ヤチンはボアズ(闇・試練の象徴)によって平衡化されなければなりません。(訳注:相対的世界を成り立たせるためには二つの極、光と闇が拮抗しなければなりませんし、そもそも光の不在が闇ゆえ両者は平衡します。)
自然の法則(光・愛)に違反すると、それに応じた厳しい罰則(闇・試練)が課せられるというのは、決して変わることのない永遠の真理です。原因と結果の法則を超えることは決してできません。罰の法則から逃れるには、知識が必要です。もし私たちが自然の法則を知り、それに基づいて生きるならば、それは私たちの揺るぎない友人となり、常に私たちに仕え、過去の失敗を叱ることもないでしょう。しかし、もし私たちが無知であったり、故意にそれに違反したりするならば、私たちが再びそれに従うようになるまで、それは私たちの無慈悲な敵となります。(訳注:善因善果・悪因悪果であり、因果は昧(くら)ますことができません。)それゆえ、永遠の苦痛と隷属からの唯一の救済は、無限の知性そのものを把握できる自己拡張によるしかありません。では、そのためにはどうすればよいのでしょうか。それは、すべてのものに、法則であると同時に実体として浸透している神の生命の「人格性」を理解できるような知性へと、私たちが進化することによって可能となります。(訳注:ごく単純に言えば、神の善なる性質あるいは属性のみを意識し体現することのできる私たちになればよいということです。)
さて、昔のユダヤ教のラビ(僧侶)は「法は人(person)なり」と言いました。神の「生命」と神の「法」が神の「人格性(personalness)」と一体であることを理解したとき、私たちはヤチン(光と愛の象徴としての柱)を補完するために必要な柱としてボアズ(闇と試練の象徴としての柱)を確立したことになります。そして、この2つが一体となる共通点を見つけたとき(訳注:神我一如に達したとき)、私たちはロイヤルアーチを掲げ、そこから神殿に凱旋することができるのです。(訳注:ヤチンを「真我」、ボアズを「自我」とみなせば理解しやすいかと思います。)
普遍的な神の「人格性」は、あらゆる個別的な概念から切り離さなければいけません。なぜなら、普遍的なものが個別的なものになることはできないからです。それは言葉として矛盾しています。しかし、普遍的な神の「人格性」は、すべての個性の根源であるため、その人格的な性質をよく理解している人には最高度の表現で応えます。そして、この認識こそが、一見解けないパラドックスを解決するのです。苦難の道を喜びの道に変える、「宇宙の法則についての知識」を得る唯一の方法は、知るべき宇宙の法則の無限性に見合った知性を自分自身の中に見出すことです。それは、あたかも海の中に浮かんでいるかのように、私たちは宇宙の法則と同義である普遍的な神の知性のただ中に浮かんでいることに気づくことによって達成されます。個性を持たない普遍的な神の知性が、しかし、私たちを生み出すとき、私たちであるところの人格を持った個に集中しているのです。
では、そのような神の知性とは、いったい私たちとどのような関係にあるのでしょうか。それは依怙贔屓をして、ある人を他の人よりも尊重したりするようなことはありません。なぜなら、神は各個人のルーツでもありそれを支えるものであるからです。また、私たちの前進を阻むこともありません。なぜなら、神は個別的存在がなければ、自らの知性が応答すべき知的な対象を持つことはできませんし、神自身がすべての個別的な知性の起源であるため、理解できないからといって個別的存在からつながりを絶たれることもあり得ないからです。
したがって、この宇宙の根底にあって、すべてを生み出す神は、神との真の関係を理解するすべての者に即座に応答する準備ができているといえます。生命の原理そのものとして、それは感覚において限りなく敏感でなければならず、その結果、私たちが神自体についてどのような概念を抱こうとも、その思念を絶対的な精度で再現するのです。それゆえ、人間という存在を、宇宙秩序の進化の過程で単に生存しているということだけでなく、その根底にある普遍的な神の「人格性」を表現できる個性が生まれた段階のものとして認識するならば、私たちの最高度の自己認識は、他の個々の個性と自分とを同一視することでなければならないことがわかります。
この同一視は、もちろん個人の知性の尺度によって段階差がありますが、単に原因と結果の法則を知的に認識するだけでなく、人が本能的に他人の中にある何かを認識して自分に似ていると感じる、言葉では言い表せない感情の交換をも意味しています。このように、他の存在の最も内奥にある生命の原理は、その普遍性ゆえに、私たち自身のものと同じでなければならないことを、私たちが知的に理解したとき、私たちは先述のパラドックスを解決したことになります。なぜなら、私たちは、全存在の内奥にある普遍的な知性との同一性を認識したことになるからです。 かくして、聖ヨハネの「汝らはすべてのことを知っている」という言葉の真意にたどり着きますが、これは特定の事実に関する具体的な知識のすべてを指しているわけではなく、私たちがどのような方向であれ選択することのできる普遍的な神の知識の原理のことです。この真意は哲学的な理解を必要とします。なぜかと言えば、個々の心の働きは、普遍的なものを特定の用途に分化させることですが、普遍的なもの全体を分化させることはできないからです。(訳注:無限の知識の宝庫から一部の知識を取り出すことはできても、無限の知識全体を取り出すことはできないということです。)すなわち、無限のものを使い切ることはできませんので、私たちがそれを所有することは、必要に応じてそれを分化させる力にかかっており、唯一の限界は、私たち自身がそれを何に割り当てることができるかということです。(訳注:無限の知識の宝庫からいかなる知識を取り出せるかということは私たちが何に関心を向けるかにかかっており、私たちの関心の向け先あるいは思考の限界が個としての私たちの自己実現の限界になります。)
このように、万物の根源であり実体でもある普遍的な神と私たちとの間の人格共同体を認識することによって、融通の利かない法の鉄の束縛から私たちを解放するという問題が解決されます。なぜなら、その認識が、万物の消滅を意味する法の破棄によってではなく、私たちの中に普遍的な法そのものと親和性のある知性を生み出し、それによって私たちが法の要求を理解し、それを満たすことができるようになるからです。
このようにして、宇宙の知性は個人化され、個人の知性は普遍化され、二つの知性は一つになります。そして、この一体化が認識され、実践されるのに比例して、身体であれ環境であれ、すべての外見上の条件を生じさせる法則がますます明確に理解され、より自由に利用されるようになり、これらの線に沿って展開される着実で知的な努力によって、限界を設けることができないほどの力を獲得することができるようになります。
自分の可能性を広げることの理論的根拠を得たいと思う受講者の皆さんは、ここで間違えてはいけません。このプロセスは、個を普遍的なレベルに引き上げることによって、普遍的なものを個の手中に収めることであり、その逆ではないことを理解しなければなりません(訳注:相対的な存在である個の認識を普遍的なレベルに引き上げて一体化するのであり、普遍的なものを相対的なレベルに引き下げて一体化するのではないということです)。無限を縮小することはできませんが、個を拡大することはできるというのが数学的真理であり、私たちの進化はまさにこの線上にあります。自然の法則は少しも変えることができません。しかし、私たちは、自然の目に見える面であれ、目に見えない面であれ、すべての特定の法則を私たちの用に供することのできるような、自然の法則の根底にある普遍的な法則と自分との関係を認識することで、自分の人生環境などの状況の支配者になることができるのです。この目的は知識によって達成されるべきであり、その計り知れない広大さの中でこの目的を達成することのできる唯一の知識は、普遍的な神の個人的要素についての知識であり、私たち自身の人格との相互関係についての知識です。したがって、神に対する私たちの認識は、必要な順序、秩序、または法則の原理として、また、私たち自身の神に対する認識に反応する知性の原理として、二つの要素から成り立っていなければなりません。(訳注:最後の一文の意味は、原因あれば結果あり(法則の原理)、思いに必ず応えあり(応答的知性の原理)と端的に理解することができるかと思います。)