5-4-1-6.第6章「成長の法則」

成長の法則を正しく理解することは、精神科学を学ぶ者にとって最も重要なことです。自然について認識されるべき偉大な事実は、それが自然であるということです。私たちは自然の秩序に背を向けることがありますが、長い目で見れば、ホラティウス(古代ローマ時代の詩人)の言うように、私たちが自然の秩序をたとえ熊手で追い出したとしても、それはやがて裏口から戻ってくるものです。自然の法則というものは、そのもの自体に備わっている生命力による成長の原理なのです。このことを最初から理解していれば、無理やり物事をそれ本来の自然の成長に反したものにしようとすることで、自らの仕事を台無しにすることはありません。だからこそ、聖書は「信じる者は急(せ)いてはならない」という言葉で、成功は成長の普遍的な法則を活かし、逆らわないことで得られるという大自然の原理を説いているのです。

私たちが霊的原型と呼ぶことにした物事の胚芽に注入する生命力が大きければ大きいほど、それが早く発芽するのは間違いありませんが、これは単に、より明確な概念(思考)の方が、弱弱しい概念(思考)よりも多くの成長力を種子に注入することができるからにほかなりません。私たちの失敗はいつも、成長の法則への不信感に帰着します。私たちは外からの働きかけで発芽を早めることができると空想して、焦りや不安に駆られたり、時にはひどく間違った方法を採用したり、あるいは希望を捨て、自分の植えた種子の発芽力を否定したりします。これらはいずれも結果は同じです。というのも、いずれの場合も私たちは自分の願望とは反対の性質を持つ新しい霊的原型を形成していることになり、それが最初に形成されたものを中和し、崩壊させ、それに取って代わることになるからです。法則はつねにおなじです。その法則とは、私たちの思考が霊的な原型を形成し、それをそのままにしておくと、外部の環境の中でその霊的原型が形を取って現れるというものです。唯一の違いは、私たちが形成する原型の種類にあり、悪も善と全く同じ法則によって私たちにもたらされます。

以上の考察は私たちの人生に対する考え方を大いに単純化してくれます。私たちはもはや万物生成の原因として二つの力を考える必要はなく、一つの力だけでよいのです。善と悪の違いは、この力をどの方向に向けるかによって決まるのです。原因の作用を逆にすれば、同時に結果も逆になるというのが普遍的な法則なのです。同じ装置で、機械的な力を与えて電気を発生させることもできますし(発電機)、逆に電気を流して機械的な力を発生させることもできます(電動機)。(訳注:発電機も電動機も仕組みは同じです。)また、簡単な算数の例を挙げれば、10÷2=5であれば、10÷5=2です。したがって、何かを生み出すのは思考の力であるということを一旦認識すれば、否定的な思考が否定的な結果を生み出す法則は、肯定的な思考が肯定的な結果を生み出す法則と同じであることがわかります。

成長の法則に対する不信感は、外から圧力をかけようとする不安感や、明るい期待に代わって絶望感を抱くことなどに表れますが、それらは元の原因の作用を逆転させ、必然的に結果を逆転させることになります。このような理由から、最も深淵なオカルト書である聖書は、絶えず信仰の力と不信仰の破壊的な作用を強調しています。また同じ理由により、精神科学のあらゆる分野における書物も、疑いや恐れを抱くことのないよう強く警告しています。疑いや恐れは増強の原理の逆転であり、それゆえ、それらは衰弱の原理です(訳注:神は常に拡大と完全を志向しています)。法則自体は決して変わるものではなく、精神科学のすべては法則のこの不変性を基盤としています。

私たちは日常生活の中で自然法則の不変性を認識することに慣れていますので、自然の目に見える側で得られるのと同じ法則の不変性が(訳注:例えば、水は高きから低きへ流れます)、目に見えない側でも得られることを理解するのは難しいことではありません。変化する要素は、法則ではなく、私たち自身の意志であり、この変化する要素である意思を不変の法則と組み合わせることによって、私たちは望むさまざまな結果を生み出すことができるのです。

成長の原理は種子自体に内在する活力によるものであり、庭師の働きは精神科学における私たちの働きとよく似ています。私たちがなすべきことは成長するための活力を種子に注入することではなく、種子を蒔くことです。そして、種子の成長を信じて水をやることです。この水やりとは、私たちの願望を静かに集中的に熟考することです。しかし、この熟考の過程において、種子を自分の力で早く成長させようとするような無駄な努力は注意深く取り除かねばなりません。これを守れば、小麦畑に毒麦を植えるような否定的な疑い心の発生を防ぐのに役立ちます。願望を発した(種子を蒔いた)後の熟考は、願望の確かな実現を予見する喜びと安らぎの感覚を伴ったものでなければなりません。これが、聖パウロが勧める「感謝をもって私たちの要求を神に知らせる」ということです。私たちは存在の法の完全性を信じて、自分が望む範囲でそれを使用することを認識するだけでよいのです。(訳注:存在の法とは「あなたが考えていること、それがあなたである」「あなたの思いが、あなたの人生として現象化するのである」という法則のことです。)

ある人は、他の人よりも優れた視覚化、あるいは物事のイメージを描く力を持っており、この能力を存在の法を働かせるうえで有利に使用することができます。しかし、この能力を十分に持っていなくても落胆する必要はありません。というのも、視覚化は、存在の法を目に見えない領域で作用させる唯一の方法ではないからです。物理科学的な傾向性を持っている人は、この成長の法則を自然界全体の創造的力として認識すればよく、また、数学的な能力の持ち主は、すべての固体は、ユークリッドが説くところの単一で大きさを持たない完全な抽象的概念である“点”(霊的な核のようなもの)の動きから生成されると考えればよいのです。

聖書の言葉を借りれば、私たちは目には見えないものを扱っているのです。目に見えるものはすべて、究極的に存在する唯一の原物質(神の光・霊子)が異なる現れ方をしたものなのです。それゆえ、私たちはこの原物質の実在性を理解し、思いの力でそれを操作しているのであると感じられるような心の習慣を身につけなければいけません。そして、(心の作用は時間や空間に縛らることはありませんので)自分の思いによる創造物は(思いが発せられた瞬間に)霊的な実体としてすでに存在しているとみなし、その後はそれが現象化するまで、成長の法則を信じてけっして疑わないことです。

第7章「受容性」はこちら

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