5-4-1-4.第4章「主観的精神と客観的精神」

ここまでは、純粋に形而上学的な推論によって到達した抽象度の高い一般原理を述べることで、科学的な基礎を築く必要がありました。ここから先は、数多くの実験と観察の積み重ねによって確立された、ある種の自然法則の考察に入ります。この法則の完全な意味と重要性は、これまで私たちが関心を向けてきた一般原則への応用を見たときに明らかになるでしょう。

さて、催眠現象は、現在では科学的に確立された事実として認識されており、その信憑性について議論する必要はまったくありません。これに基づいて2つの名高い医学部が設立され、いくつかの国では特別な法律も制定されています(訳注:1900年時点)。したがって、現在、私たちが直面している問題は、催眠術に関わる事実の信憑性ではなく、そこから導き出される適切な推論です。この推論を正しく理解することは、精神科学者にとって最も価値のある補助的手段の一つとなります。なぜなら、私たちが純粋かつ直観的な洞察によって得た心に関する結論の正しさを、疑う余地のない一連の実験的な事例によって確認することができるからです。

催眠術の科学が明らかにした偉大なる真実は、人間の心の二面性(訳注:①“客観的精神=表面意識+個人的無意識(深層心理)”と②“主観的精神=集合的無意識(潜在意識)”)です。この二面性については、一人の人間の中に実際には別々の二つの心が存在することによるものなのか、それとも同じ心が二つの異なる機能を果たすことによるものなのか、様々な識者の間で意見が分かれています。しかし、このような意見の対立は、真理を明らかにするうえで非常に多くの妨げの原因となる、“違いのない区別”なるものの一つにすぎません。人間が人間であるためには、単一の個性でなければなりません。したがって、人間のさまざまな精神的作用を、単一の個性が持つ二つの心から生じていると考えても、あるいは一つの心が二つの機能を持っていると考えても、結果は同じなのです。私たちは一人の人間を扱っているのであり、心の働きをどのように描くかは、どのような絵がその働きの性質を最もはっきりと私たちに教えてくれるかという問題にすぎません。それゆえ、便宜上、この講義では、この二面的な心の働きが、外と内の二つの心から生じているかのように話すことにします。内なる心を主観的精神(潜在意識)、外なる心を客観的精神(表面意識+個人的意識)と呼ぶことにしますが、この名称による区分はこの分野についての文献で最も頻繁に使われているものです。

高度な訓練を受けた観察者(その中には世界的に有名な人物もいます)による慎重な一連の実験により、主観的な心の働きと客観的な心の働きとの間には、簡潔に述べると、以下のような顕著な違いがあることが完全に立証されています。

主観的な心は演繹的にしか推論できず、帰納的には推論できませんが、客観的な心はその両方ができます。演繹的推論とは、他の2つの命題を仮定した場合に、なぜ3つ目の命題が必然的に生じるのかを示す純粋な三段論法ですが、最初の2つの命題が真であるか否かを判断するのには役立ちません。これを判断するのは、一連の事実を観察したうえで結論を導く帰納的な推論の領域です。この2つの推論方法の関係は、まず十分な数の事例を観察することによって、ある原理が「一般的」に適用できるという結論に帰納的に到達し、次にこの原理の真実性を仮定し、その真実性の仮説に基づいて「特定」の場合にどのような結果が生じるべきかを決定する演繹的プロセスに入るというものです。このように、演繹的推論は、ある仮説や仮定の正しさを前提にして進められます。それは、それらの仮説の真偽を気にすることなく、それらが真であると仮定した場合に、どのような結果が必然的に生じるかということを推論します。一方、帰納的推論とは、かなりの数の異なる事例を比較して、それらを生み出す共通の要因を見出すプロセスです。帰納法は事実の比較によって行われ、演繹法は普遍的な原理の適用によって行われます。主観的な心が行うのは演繹的な方法だけです。催眠状態にある人を対象とした無数の実験により、主観的な心は、帰納的プロセスに必要な選択と比較を行うことが全くできないことが示されています。しかし、間違っていようとも、どんな暗示であっても受け入れてしまいます。そして、いったん暗示を受け入れてしまうと、そこから適切な結論を導き出すために、厳密に論理的になり、与えられたすべての暗示を、そこから得られる結果の細部に至るまで完璧にやり遂げます。

ということは、主観的な心は完全に客観的な心の支配下にあるということです。主観的な心は最高の忠誠度で、客観的な心が自分(主観的な心)に印象づけたことを再現し、最終的な結果に結びつけます。そして、催眠術の事実は、主観的な心は、自分自身の客観的な心と同じく、他の人の客観的な心によっても支配されることを示しています。これは非常に重要な要点です。なぜなら、催眠効果によるすべての治癒の現象は、他の人(施術者)の思考による暗示に対するその人自身(被験者)の主観的な心の従順さに依拠しているからです。手慣れた催眠術者のコントロール下では、しばらくの間、被験者の人格そのものが変化していきます。被験者は、施術者から言われた通りの人格(あるいは存在)に自分がなっていると信じます。彼は、波をかき分け進む水泳選手であり、空を飛ぶ鳥であり、戦場における兵士であり、獲物を密かに追うインディアンです。つまり、当面は、施術者の意志によって与えられたいかなる人格(や存在)をも、それが自分であると考え、その役を正確に演じるのです。しかし、催眠術の実験はこれよりもさらに進んで、主観的な心の中に、物理的な感覚を通して客観的な心が行使する力をはるかに超える力が存在することを示しています。 読心術、思考伝達(テレパシー)、透視などの力です。これらの力は、患者がより高度な催眠状態になったときに頻繁に現れるものであり、完全に発達させ、意識的にコントロールできれば、完全に新しい生命領域に入ることができるようになる超越的な能力が私たちの中に存在することが実験的に証明されているといえます。

しかし、注意しなければならないのは、コントロールするのは自分自身でなければならず、生身の人間であろうとなかろうと、外部の知性であってはならないということです。しかし、催眠術の実験が実証した最も重要な事実は、実は主観的な心が身体を造っているということです。患者の中の主観的な心は、患者が苦しんでいる病気の特徴を診断し、適切な治療法を指摘することができます。これは、主観的な心が、最も高度な訓練を受けた医師以上の生理学的知識を持っていることを示しています。また、身体の器官の病気の状態と、救済をもたらす物質的な治療法との間の対応関係についての知識も持っています。さらに言えば、催眠状態の中で施術者が患者に完全な健全性を示唆すると、物質的な治療法を全く使わなくても、主観的な存在が生体に直接働きかけ、健康が完全に回復するという事例も数多くあります。

これらの事実は、世界各地の様々な研究者によって行われた何百もの実験によって完全に立証されており、そこから最も重要な2つの推論(結論)を導き出すことができます。一つは、主観的な心はそれ自体が絶対的に非人間的(非人格的)であるということ、もう一つは、主観的な心が身体の建造者、言い換えれば個人の中における創造的な力であるということです。それ自体が非人格的であることは、催眠術師が印象づけようとするいかなる人格も引き受ける用意があることからわかります。その人格の実現は、その個人特有の客観的な心との関連によって生じます。主観的な心は、客観的な心が印象づけるどのような人格をも受け入れて実行し、身体の建造者であることから、印象づけられた人格(暗示)に対応した身体を造り上げます。主観的な心のこの二つの法則が、私たちの身体は私たちの信念の集合体である(思いがすべてである)という原理の基礎を形成しています。

身体は自分ではコントロールできない様々な影響を受けていて、あれやこれやの症状は、そのようなコントロールできない影響が自分に働いている結果であるという固定観念があると、この観念は主観的な心に刻み込まれ、主観的な心は、その性質上、疑うことなくそれを受け入れ、その観念に従って身体の状態(病気)を造り上げることになります。

また、すべての医学の基礎は、一定の物質的な治療法のみが唯一の治療手段であるという固定観念のうえに成り立っているといえますが、医学はけっして否定されるべきものではなく、自然の法則(原理)をより深く理解していない人にとっては、身体の病気を軽減するための貴重な助けとなるものです。ただ、医学はそれなりに良いことができるという信念を持つのはよいとしても、それよりも高い、あるいはより良い方法はないという信念は持つべきではありません。

それゆえ、前述した原理により、もし私たちが主観的な心が身体の建造者であり、身体は主観的な心以外の影響を受けないことを理解するならば、私たちがなすべきことは、この理解を信念に変える(訳注:ジェームズ・アレンの言葉を借りれば「頭の信念を心の信念に変える」)ことです。そのためには主観的な心が、私たち自身の思考によって印象づけられた私たち自身の願望(思い)の影響を除いては、いかなる種類の影響からも完全に独立していること、また、主観的な心は、身体を強くて健康なものに継続的に改造しようとしている、永遠の生命の源泉であるということを習慣的に考えつづけることです。これらのことをよく理解すれば、身体を健康な状態にすることは、逆に極めて簡単であることがわかります。

実質的には、このプロセスは自分自身の生命力を信じることに帰着します。この信念が自分の内にしっかりと宿っていれば、それに見合った健康な体が必ず造られますので、このような信念を持つことには、正当で合理的な理由があることを自分に納得させるための努力を惜しんではなりません。そのための確かな基礎知識を提供するのが、精神科学の目的です。

第5章「主観的精神と客観的精神のさらなる考察」はこちら

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