外なる宇宙には絶え間ない混乱と変化と不安がありますが、万物の中心には乱されることのない安息があり、この深い沈黙の中に永遠が宿っています。
人間はこの二面性を持っており、表面的な変化や不安と、深層にある永遠の平和の住処(すみか)の両方が、人間の内に含まれているのです。
海に、どんなに激しい嵐でも到達できない静かな深さがあるように、人の心にも、罪と悲しみの嵐が決して乱すことのできない、静かで神聖な深みがあります。この静けさに到達し、その中で意識的に生きることが平和なのです。
外なる世界には不和が蔓延していますが、宇宙の心においては完全な調和が支配しています。人間の魂は、不和の激情と悲しみに引き裂かれて、知らないうちに罪なき状態の調和に向かって手を伸ばします。この状態に到達し、そして、その中で意識的に生きることが平和なのです。
憎しみは人の命を奪い、迫害を助長し、国々を無慈悲な戦争に駆り立てます。しかし、人はなぜだか分からないものの、完璧な愛の影をいくらかは信じています。そして、この愛に到達し、その中で意識的に生きることが平和なのです。
そして、この内なる平和、静寂、調和、愛こそが天の王国なのですが、この王国に到達することは非常に困難です。なぜなら、ほとんどの人が自己を捨てて幼子のようになろうとしないからです。
「天国の門は非常に狭くて小さい。
この世の虚しい幻影に目が眩まされている愚か者はそれに気づかない。
たとえ、入り口を見つけし英明な者も
入ろうとするが、門が閉ざされていて
鍵を開けるのが難しいことに気づく。
その大きな鍵のボルトは、プライドと激情、強欲と情欲である。」
人は平和!平和!と叫びますが、そこに平和はなく、逆に不和、不安と争いがあります。自己放棄と切っても切れない智慧がなければ、本当の意味での永久的な平和はあり得ないのです。
社会的な快適さ、一時的な満足、世俗的な勝利から得られる平和は、その性質上、はかないものであり、厳しい試練の熱で焼き尽くされます。天国の平和のみが、あらゆる試練に耐えるものであり、無私の心だけが、天国の平和を知ることができるのです。
神聖さの中にだけ不滅の平和があります。自制心が神聖さに導いてくれ、増し続ける智慧の光が巡礼者の道を照らしてくれます。美徳の道に入るやいなや、少しは平和を味わうことができますが、しかし、その完全な実現は、汚れなき人生の完成によって自己が消滅したときのみです。
「これが平和です。
自己愛と人生の強い欲望を克服すること。
内なる紛争を静めるために、心の奥底から根深い激情を引き剝がすこと。」
おー、読者よ!もしあなたが、色あせることのない光、尽きることのない喜び、妨げられることのない静けさを実現したいのなら、もしあなたが、罪、悲しみ、不安、混乱を永遠に捨て去りたいのなら、もし、あなたがこの救い、この最高の栄光に満ちた生命を享受したいのなら、自分に打ち克ちなさいということです。あらゆる思考、あらゆる衝動、あらゆる欲望を、あなたの中に宿る神の力に完全に従わせるのです。平和への道はこれ以外にはありません。もしあなたが、この道を歩むことを拒むならば、多くの祈りも、儀式の厳格な遵守も、実を結ばず、役に立つことはなく、神も天使もあなたを助けることはできません。ただ、己に打ち克つ者にのみ、新しき聖なる名が記された、再生の命が与えられるのです。
しばし、外的なものから離れ、五感の楽しみから離れ、識者の議論から離れ、世の中の騒音や興奮から離れ、自分の心の奥底に引きこもり、そこで、神聖さを汚すあらゆる利己的な欲望から解放されなさい。そうすれば、深い沈黙、聖なる静寂、至福の安息を得ることができるでしょう。そして、その聖なる場所でしばらく休み、そこで瞑想するならば、あなたの中に真理の完全無欠の目が開かれ、物事があるがままに見えるようになるでしょう。あなたの中のこの聖なる場所が、あなたの本当の永遠の自己であり、あなたの中の神なのです。そして、あなたが自分自身をそれと同一であると認識できるときのみ、あなたは「服を着ていて、正気である」といえるのです(訳注. 「服を着ていて、正気である」とはルカ伝 8:26~39に出てくる一節を引用した表現です。何体もの悪霊に憑りつかれ、裸で墓場に居ついていた男にイエスが悪霊よ立ち去れと命じられると、その男は正気に戻り衣服を着てイエスの足元に座ったという逸話です。)。そこは平和の住まいであり、智慧の神殿であり、不死の居場所です。この内なる安息の場、すなわち理想の聖地を離れては、真の平和も、神の知識もあり得ません。そして、もしあなたが1分、1時間、あるいは1日そこにとどまることができるならば、あなたは常にそこにとどまることが可能となります。あなたの罪や悲しみ、恐れや不安はすべてあなた自身のものであり、あなたはそれにしがみつくことも、それを断つこともできます。自分の意志で不安にしがみつくことも、自分の意志で永続的な安らぎを手にすることもできるのです。誰もあなたに代わって罪業を止めることはできません。あなた自身が止めなければならないのです。最も偉大な教師も、真理の道を自分自身のために歩き、あなたにそれを示す以上のことはできません(訳注:これは仏教でいう「指月の譬え」です)。あなた自身が自分のためにその道を歩まなければならないのです。あなたは自分の努力と、魂を縛り、平和を破壊するものを放棄することによって、独り自由と平和を手に入れることができるのです。
神の平和と喜びの天使はいつも手の届くところにいます。もしあなたが彼らを見ず、彼らの声を聞かず、彼らと一緒にいないのなら、それはあなたが彼らから自分を締め出し、あなたの中の悪なる精神の仲間を好んでいるからです。
それならば、一歩脇に退きなさい。人生のイライラや興奮の外に出なさい。自己の灼熱から離れなさい。そして、内なる安息の場所に入りなさい。そこは、平和の涼しい風があなたを落ち着かせ、再生させ、回復させてくれる所です。
罪と苦悩の嵐から抜け出しなさい。神の平和の楽園はあなたのものなのに、なにゆえに悩み、大嵐に翻弄されるのですか。
すべての身勝手さを放棄しなさい。自己を放棄しなさい。さすれば、見よ!神の平和はあなたのものです。
あなたの中の動物性を鎮圧し、すべての利己的な所業、すべての不協和音を征服し、あなたの利己的な性質の卑金属を愛という純粋な金に変換しなさい。さすれば、あなたは完全なる平和の人生を実現することができるでしょう。この鎮圧、征服、変換をなすことで、読者よ!あなたは肉体に宿って生きながら、死の暗い河を渡り、そして、悲しみの嵐がけっして打ちつけることのない、罪と苦しみと暗い不安がやってくることのできないあの岸に到達するのです。
神聖さ、慈愛、目覚め、静寂さと尽きることのない喜びのその岸辺に立つとき、あなたは次のことを悟るでしょう。
「霊は決して生まれることもなく、滅することもない。
時間というものはなく、終わりと始まりは夢の内にある。
生まれもせず、死にもせず、変化もせず、霊は永遠に存在する。
死はまったく触れてもいない。たとえ、その肉体が死んでいるように見えても。」
(訳注.「」内はバガバットギータの一節です。この4行の後には次の文章がつづきます。
霊は尽きることなく、自立し、不死身で、破壊され得ないことを知る者が「私は人を殺した、あるいは殺させた」と言うか?
いや、本当のところは、人が着古した衣を捨て、新しい衣を手に取り、「今日はこれを着よう!」と言うように、そのように、霊はその肉体の衣を軽々と脱ぎ捨て,新たな住まいを受け継ぐ。)
そうすれば、あなたは罪、悲しみ、苦しみの意味を知り、その目的が智慧の獲得であることを知り、存在の原因と結果を知ることになります。
この認識を持てば、あなたは安息を得ることでしょう。なぜなら、これが不滅の至福であり、不変の喜びであり、制限のない知識であり、汚れのない智慧であり、永遠の愛であり、これこそが完全なる平和の実現だからです。
ああ,真理を人に教えんとする汝よ。
汝、疑惑の砂漠を通り過ぎしか?
汝、悲しみの炎によって浄化されしか?汝の人間心から、自己主張の悪鬼は追放されたか?汝の魂は間違った考えがそこに居座ることができないほどに公明正大であるか?
ああ,愛を人に教えんとする汝よ!
汝、絶望の場所を通り過ぎしか?
汝、深い悲しみの暗い夜を泣き通したことありしか?
それは
(今、悲しみや不安から解放され)
汝の人間心を
誤りと憎しみと止むことなき心の痛みを見て、
憐れむ優しさへと向けしか?
ああ,平和を人に教えんとする汝よ!
汝、争いの大海原を渡りしか?
汝、静寂の岸辺で、荒々しい人生のあらゆる不安からの解放を見つけしか?
汝の人間心から、すべての争いは消え去り、真実と愛と平和だけが残りしか?