5-3-1-5.第5章「無限に入る」

太古の昔から人間は、肉体的な欲望や願望にもかかわらず、地上の無常なものに執着する中で、自分の物質的存在としての有限性、はかなさ、幻想性を直感的に意識し、正気で静かにしている時には、無限なるものを理解しようと、永遠の心の安らかな真実を涙ながらに熱望してきました。

この世の快楽は実体のある満足できるものだと思いつつも、痛みや悲しみが、それは実体のない満足できないものであることを絶えず思い起こさせます。人は物質的なものにこそ完全な満足があると信じようとしながらも、この信念に対して内なる執拗な反感を意識しています。この反感は同時に、自分の本質的な死すべき運命に対する反感であり、不滅のもの、永遠のもの、無限のものにおいてのみ、永続的な満足と完全な平安を見出すことができるという本来の不滅性の証明ともいえるものです。

そして、ここに信仰の共通の基盤があり、ここにすべての宗教の根源と源泉があり、ここに同胞愛という魂の愛の心があります。人間は本質的、精神的に神聖で永遠であるということです。そして、死ぬべき運命に浸され、不安に悩まされて、自分の本質の意識に入ろうと常に努力しているということです。   

人間の精神は無限と切り離すことはできず、無限から離れたもので満足することはできません。物質の夢の世界を彷徨(さまよ)うのを止め、永遠の実在の世界へ戻るまで、痛みの重荷は人の心に重くのしかかり続け、悲しみの影は人の行く手を暗くし続けます。

大海から切り離された最小の水の一滴が大海のすべての性質を含んでいるように、無限から意識を切り離された人間も、自分の中にそれと同質のものを含んでいます。 そして、水滴がその自然の法則によって、最終的には海に戻り、静かな深みに消えゆくように、人間も、その確かな自然の法則によって、最後には源に戻り、無限の大海の中に自己を消し込むことになります。

無限と再び一体となることが人間の目標なのです。永遠の法則と完全に調和することが、智慧であり、愛であり、平和なのです。しかし、この神聖な状態は、普通の人には理解できないものであり、いつまでも理解できないに違いありません。自己意識、自他の分離、利己主義は一体であり、智慧と神聖さの対極にあるものです。自己意識を全面的に放棄することによって、自他の分離と利己主義は終わり、人は不死と無限の神聖な立場を所有することになります。

このような自己意識の放棄は、世俗的で利己的な心にとっては、あらゆる災難の中で最も許しがたく、最も取り返しのつかない損失とみなされますが、しかし、それこそが唯一の最高で比類のない祝福であり、唯一の実体のある持続する報酬なのです。内なる存在の法則と、自らの生命の本質と運命について無知な心の持ち主は、一過性の外見、つまり永続的な実体を持たないものに執着し、その執着がある間は、自らの幻想の砕けた残骸の中に滅びていくのです。

人は、肉体が永遠に続くものかのように肉体に執着し、肉体を満足させようとします。そして、肉体の消滅の訪れとその必然性を忘れようとしますが、死および執着しているものすべてが失われることへの恐怖が、最も幸せな時間を曇らせ、自分の利己主義の冷たき影が、無情な亡霊となってつきまといます。

そして、一時的な慰みと贅沢の積み重ねによって、人間の中の神聖さは薬漬けにされ、ますます物質的で、五感の滅びゆく生活に沈み、それなりの知性があるものは、肉体の不死に関する理論を絶対的な真理とみなすようになります。人の魂はいろいろな形で現れる利己主義で曇らされると、精神的な識別力を失い、一時性と永遠、滅びと永続、死と不死、誤りと真理を混同してしまいます。そのために、世の中は人間の経験に基づかない理論や憶測で溢れるようになりました。しかし、肉体を持つものは皆、誕生の時から自らを滅ぼす要素を内包しており、その本質の不変性ゆえに、必ずや滅びます。

宇宙の中の滅びるものは決して永久なるものになることはできず、永久なるものは決して滅びることはできません。死すべきものは決して不滅になることはできず、不滅のものは決して死ぬことはできません。一時的のものは永遠になることはできず、永遠のものは一時的なものになることはできません。見せかけ(仮相なるもの)は決して実体になることはできず、実体のあるものは見せかけの中に埋没することはできません。誤りは決して真実になることができず、真実が誤りになることも決してあり得ません。人間は肉体を不滅にすることはできませんが、肉体に打ち克ち、そのすべての傾向性を放棄することによって、不滅の領域に入ることができます。「神のみが不死を有する」のであり、神の意識を実感することによってのみ、人間は不死に入ります。

数限りない命の形態を持つ自然界のすべてのものは、変化しやすく、無常であり、永続することはありません。永続するのは自然界のものを生かさんとする原理だけです。自然界のものは多様であり、分けることができます。しかし、生命の原理は一つであり、分けることはできません。人間は、自然界のものであることの克服、すなわち、五感と内なる利己主義を克服することによって、個別的で幻想的なさなぎから抜け出し、非人格的な輝かしい光、すなわち、すべての滅びるべき形態がそこから生じる普遍的な真理の領域へと羽ばたきます。

したがって、人は自己犠牲を実践し、動物的な性向に打ち克ち、贅沢と快楽の奴隷になることを拒否し、徳を実践し、日々徳を高め、ついには神聖に至るまで、謙遜、柔和、許し、同情、愛の実践と理解の両方に入っていきなさい。これらの実践と理解が神聖さを形成するのです。

「善意は洞察力を与える」です。自我を克服して、すべての被造物に対して善意という一つの心の態度を持つ者だけが、神聖な洞察力を持ち、真と偽とを区別することができます。したがって、至高の善人とは、賢人、神人、悟りを開いた先を見通す者であり、永遠を知る者です。人の中に完全な優しさ、持続する忍耐心、卓越した謙虚さ、品のある言葉遣い、自制心、献身、深く豊かな思いやりを見出したなら、そこに最高の智慧を探し、そのような人との交わりを求めなさい。なぜなら、彼は神聖さを実現し、永遠とともに生き、無限と一体になっているからです。せっかちで、怒りっぽく、自慢屋で、快楽に執着し、自分勝手な満足を捨てようとせず、善意と多くのものへの慈悲を実践しない者を信じないことです。そういう者は智慧がなく、その知識も中身のないものであるからです。そのような人の仕事と言葉は滅びるでしょう。というのも、それらは消えゆくものに基づいているのですから。

自己を捨て、世俗に打ち克ち、私事を否定することです。この道によってのみ、人は無限の中心に入ることができるのですから。

世間も肉体も人格も、時間の砂漠に浮かぶ蜃気楼であり、霊的な沈滞の闇夜に浮かぶ一過性の夢であり、砂漠を越えた者、霊的に目覚めた者のみが独り、あらゆる見せかけが追い払われ、夢想と妄想が消え失せた普遍的実在を理解するのです。

無条件の服従を求める一つの大法則、すべての多様性の基礎となる一つの単一化原理、地上のすべての問題が影のように消え去る一つの永遠の真理があります。この法則、この単一性、この真理を理解することが、無限の中に入ることであり、永遠と一体になることなのです。

人生の中心を愛の大法則に置くことは、安息、調和、平和に入ることです。悪と不和へのあらゆる加担を断ち、悪へのあらゆる敵対と、善であることの不作為をやめ、内なる神聖な静寂さへの揺るぎない従順さを拠り所にすれば、物事の最も奥深いところに入り込み、単に知るだけの知性には知る由もない神秘、すなわち、永遠で無限の原理の生きながらの意識的体験に到達します。この原理が悟れない限り、魂に平和は確立されません。この悟りを得る者が、真の賢者です。学んで得た知恵ではなく、潔白な心と神聖な人間性の純真さによって賢いのです。

無限と永遠を悟ることは、闇の王国を構成する時間と世間と肉体を脱して、光の帝国を構成する不死と天国と霊性に定着することです。

無限の世界に入ることは、単なる理論や情緒的なものなどではありません。それは、内なる浄化のたゆまぬ実践の結果であり、生き生きとした体験なのです。肉体が本当の人間であると、もはや微塵も信じられなくなったとき、すべての食欲と欲望が徹底的に抑制され、浄化されたとき、感情が休まり落ち着き、知性のぐらつきが止まり完璧な平衡が確保されたとき、その時初めて、意識は無限と一体になり、純真な智慧と深い平和が確保されるのです。

人は人生の暗い問題で疲れ果て、灰色になり、ついにはその問題を解決しないまま、死んでゆきます。有限の自己にとらわれ過ぎて、自己意識の闇から抜け出すことができないからです。自己の生命を守ろうとするあまり、人はより偉大な非人格的な生命を失い、滅びゆくものに執着するあまり、永遠を知ることから締め出されてしまうのです。

自己を放棄することによって、すべての困難が克服されます。宇宙に誤りがないというよりは、内なる犠牲の火が誤りを籾殻のように焼き尽くすのです。どんなに大きな問題も、自己犠牲のサーチライトの下では、影のように消え失せます。問題は、自分が作り出した幻想の中にのみ存在するもので、自己を放棄したとき、それは消滅します。自己と誤りは同意語です。誤りは底知れぬ複雑さの闇によるものですが、真理の輝きは永遠の単純さの中にあります。

自己愛は人を真理から締め出し、自分の個人的な幸福を求めながら、人はより深く、より純粋で、より永続的な至福を失います。カーライルは言います。「人間には幸福を愛することよりも高次のものがあります。人は幸福を求めなくてもやっていけるし、その方がかえって、大きな幸運を見出すことができます。(中略)快楽を愛さず、神を愛しなさい。これは永遠の肯定であり、すべての矛盾が解決されます。その人の歩むところ、その人の働くところ、その人はうまく行きます。」

自己、すなわち人が最も愛し、激しく執着する自己意識を放棄した人は、あらゆる複雑さから抜け出し、非常に深遠なシンプルな世界に入ります。その結果、誤りのネットワークと化している世間からは、愚か者と思われます。しかし、そのような人は最高の智慧を実現し、無限の中に安住しているのです。彼は「競争することなく成し遂げ」、すべての問題は彼の前に溶けていきます。なぜなら、彼は真実の領域に入り、変化する結果ではなく、物事の不変の原理に対処できているからです。彼は、獣性に勝る理性、その理性にも勝る智慧に導かれています。欲望、過ち、自論、偏見を捨てて、彼は神の知識を手に入れ、天国への利己的な欲望を滅し、それとともに地獄に対する無知なる恐怖も滅し、人生そのものへの愛さえも放棄して、彼は最高の至福と永遠の生命、すなわち生と死を架橋し、それ自体の不滅性を知っている生命を得ているのです。無条件にすべてを放棄することによって、彼はすべてを手に入れ、無限の懐に安らかに抱かれています。

自己から解放され、生きることと滅すること(あるいは滅することと生きることが)等しく満足できるようになった者だけが、無限の世界に入ることができるのです。滅びゆく自己を信頼することをやめ、大いなる法則、至高の善を限りなく信頼することを学んだ者だけが、永遠の至福に与る準備を行うことができるのです。

そのような者には、もう後悔も失望も自責の念もありません。なぜなら、すべての利己主義を止めたところには、これらの苦しみはあり得ないからです。自分の身に何が起ころうとも、それが自分のためであることを知り、もはや自己のしもべではなく、至高の存在のしもべであることに満足しているのです。彼はもはや地上の変化に影響されず、戦争や戦争の噂を聞いても彼の平和は乱されず、人が怒り、冷笑し、喧嘩になるところにおいて、慈しみと愛を授けるのです。外見上はそれと矛盾しているように見えても、世界は進歩していることを彼は知っているのです。

そして、
笑うこと、泣くことを通し、
生きること、守ることを通し、
愚行と労苦を通し、ジグザグに進みながらも
初めから終わりまで、
すべての美徳とすべての罪を通し、
神の偉大な進歩の糸巻きから繰(く)られて、黄金の光の糸が走るのを彼は知っているのです。

激しい嵐が吹き荒れても、誰もそのことに怒りません。なぜなら、それがすぐに通り過ぎることを知っているからです。争いの嵐が世界を荒廃させているときも、賢者の心は揺らぎません。賢者は真理と憐憫の目で見ながら、それが過ぎ去ることを、そして、その嵐が残した傷ついた心の残骸の中から、不滅の智慧の神殿が建てられることを知っているからです。

崇高な忍耐力、無限の慈愛、深く静かで純粋な彼の存在そのものが祝福であり、彼が語るとき、人々はその言葉を心の中で熟考し、それによってより高いレベルに到達します。

そのような人は無限の世界に入り込み、最大の犠牲の力によって生命の聖なる謎を解き明かした人です。

人生と運命と真理を疑問に思い、
私は暗くて迷宮のようなスフィンクスを探索した。

スフィンクスは私に奇妙で不思議なことを話した。

「目隠しは盲目の目の内にのみある。そして、神のみが神の姿を見ることができる」と。

私はこの秘密の謎を解こうと盲目と苦痛の道をむなしく歩んだ。

しかし、愛と平和の道を見つけたとき、
目隠しは消え、私はもう盲目ではなくなった。

その時、私はまさに神の目で神を見た。

第6章「聖人、賢人、救世主:奉仕の法」はこちら

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