5-3-1-4.第4章「無償の愛の実現」

マイケル・アンジェロ(ミケランジェロ)は、すべての荒削りな石のブロックの中に、名人の手がそれを実現するのを待っている美しき姿を見たと言われています。それぞれの石の内には、信頼のおける名人の手と忍耐の鑿がそれを具現化するのを待っている聖なるイメージが宿っています。そして、その聖なるイメージは、汚れのない無私の愛として明らかにされ、実現されるのです。

固くてほとんど見通すことのできない付着物の塊で覆われていることが多いものの、人間の心の奥底には、神聖で汚れなき、不滅の永遠なる神の愛の精神が隠されています。それは人間の中の真理であり、至高の存在に属するものであり、実在で不滅のものです。他のすべてのものは変化し、過ぎ去りますが、これだけは永久不変です。そして、この愛を、最高の正義の実践に絶え間なく励むことによって体現し、その中で生き、その中で完全に目覚めることは、今ここにおいて不死に入ることであり、真理と一体となり、神と一体となり、万物の中心にある精神と一体となり、自分自身の永遠なる神性を悟ることです。

この愛に到達し、それを理解し、経験するためには、人は自分の心に大いなる忍耐と勤勉さをもって働きかけ、倦まず弛まず、信念を強く持ちつづけなければなりません。というのも、神性なイメージがそのすべての栄光の美しさを現すまでには、取り除くべきもの、成し遂げなければならないことがたくさんあるからです。

神性を獲得しようとする者は、徹底的に試されますが、これは絶対に必要なことです。なぜなら、これなくしては、真の知恵と神性を得るために必要不可欠な卓越した忍耐心は身につかないからです。その試しの過程において、ときどき、自分の仕事が徒労に終わり、自分の努力が水の泡になるように思われることがあります。時折、性急さが自分のイメージを歪めることもあるでしょう。そして、おそらくは自分の仕事がほぼ完成したと思ったとき、神の愛の美しい形態と思っていたものがまったくそうでなかったことに気づき、過去の苦い経験を頼りに再びやり直さなければならなくなることもあります。

しかし、「至高」を実現しようと固く決心した者は、それを敗北とは受け止めません。すべての失敗は見かけに過ぎず、実体のあるものではありません。すべてのつまずき、転倒、利己主義への逆戻りは、そこから黄金の知恵の粒が抽出され、高い目標の達成に向けて努力する人の助けとなる教訓であり、経験なのです。

「私たちの悪癖は、その恥ずべき行為の一つ一つを足で踏みつぶせば、天国への梯子を組み立てることができるもの」と認識することは、紛れもなく神へと続く道へ入ることです。そして、このように認識した人にとって、失敗の数々は多くの死んだ自分自身であり、それはより高いものへ向かって彼が立つべき踏み台となるものです。

いったん、自分の失敗や悲しみや苦しみを、どこに自分の弱点や欠陥があり、どこが真理や神性さに悖る部分なのかを明白に教えてくれる多くの声とみなすようになれば、絶え間なく自分を見つめるようになります。すべてのつまずきや痛みは、自分の心をより神性なものに近づけ、完璧な愛に近づけるために、どこから手を付けるべきなのか、何を自分の心から取り除かなければならないかを示し教えてくれるものなのです。そして、日々、自分を内なる利己主義から切り離しながら生きていくと、無私なる愛が徐々に表に現れてきます。そして、あなたが忍耐強く冷静になっていき、あなたの癇癪や短気、苛立ちがあなたから去り、強力な欲望や偏見があなたを支配し奴隷にすることがなくなったとき、あなたは自分の内なる神性が目覚めつつあること、あなたが永遠の心に近づきつつあること、あなたが平和と永遠の生命をもたらす無私の愛から遠くないことを知ることになるのです。

神の愛は、えこひいきとは無縁であるという極めて重要な点において人間の愛と区別されます。人間の愛は、他のすべてを排除してある特定の対象に執着し、その対象が取り除かれたとき、その人は大きく深い苦しみを味わうことになります。それに対して、神の愛は全宇宙を包含し、いかなる部分にも執着することはありません。しかし、その内にすべてを包み込んでいます。

人は、人間的な愛を徐々に純化させ、拡大させ、利己的で不純な要素をすべて焼き尽くすまでに至ってはじめて苦しみから解放されます。苦しみが生じるのは、人間の愛が狭く、有限で、利己主義にまみれているからです。

絶対的に純粋で無私なる愛からは、いかなる苦しみも生じません。とはいえ、人間的な愛は、神性へ至るステップとして絶対に必要なものです。どんな魂も、最も深くて強い人間的な愛ができるようになるまでは、神の愛に与(あずか)る準備ができているとはいえません。人は、人間的な愛と人間の苦しみを透過してこそ、神の愛に到達し、神の愛を実現することができるのです。

人間の愛はすべて、形に捉われていて滅びやすいものです。しかし、不滅の愛というものがあり、それは外見に捉われることがありません。

人間の愛はすべて人間の憎しみによって相殺されます。しかし、反対や反作用などに左右されない愛というものがあります。それは神性の愛で、自己のあらゆる汚れから解き放たれ、すべての人にその香りを同様に振りまく愛です。

人間の愛は、神の愛の写しであり、それは悲しみや変化とは無縁な愛の実体に魂を近づけるものです。

胸の中の小さな無力な肉体を限りない優しさで包み込む母親が、冷たい大地に横たわるその姿を見たとき、悲しみの暗い涙に暮れるのは当然のことです。涙が流れ、心が痛むのは当然のことです。こうして初めて、喜びや感覚の対象のはかない性質を思い知らされ、永遠で不滅の実在へと近づくことができるのです。

恋人、兄弟、姉妹、夫、妻が、目に見える愛情の対象から引き裂かれたとき、深い苦悩を味わい、憂いに包まれるのは当然のことです。それは目に見えないすべての源に愛情を向けることを学ぶためであり、そこにのみいつまでも変わることのない喜びが見出されるのです。

高慢な者、野心家、自己中心的な者は、敗北、屈辱、不幸に見舞われ、苦難の灼熱の火を通り抜けるのがよいのです。こうして初めて、迷える魂は人生の謎について考えるようになり、こうして初めて、心は和らぎ、清められ、真理を受け入れる準備ができるのですから。

苦悩の棘に心を刺し貫かれ、憂鬱と孤独と捨て去られることで友情と信頼を曇らされるとき、そのとき、心は永遠の庇護の愛に向かい、その静かな平和の中に安息を見出すのです。この愛に来し者は、誰であれ、わびしさに追い返されることもなく、苦悩に突き刺されることもなく、憂鬱に包み込まれることもなく、暗黒の試練の中に見捨てられることもないのです。

神の愛の栄光は、悲しみによって鍛えられた心にしか現れず、天国のイメージは、無知と自己の生気のない、雑然とした付着物が削ぎ落とされたときにのみ、知覚され実感されるのです。個人的な満足も報酬も求めず、差別することもなく、心に痛みを残すことのない愛だけが、神性な愛と呼ばれるのです。

自己と安らぎのない悪の影にしがみついている人は、神の愛を、手の届かない神に属するもの、自分の外にあり、永遠に外にあり続けるものと考える習慣があります。事実、神の愛は自己の届かないところにあります。しかし、心の中から自己が消えたとき、無私の愛、最高の愛、神あるいは善なる愛は、自分の内なる不変の現実となります。

そして、この聖なる愛の内なる実現こそが、これほど多く語られながら、ほとんど理解されていないキリストの愛にほかならないのです。愛とは、魂を罪から救うだけでなく、魂を誘惑の力の上に持ち上げるものでもあるのです。しかし、どうすればこの崇高な愛の実現に到達できるのでしょうか。この問いに対して、真理が常に与えてきた、そしてこれからも与え続ける答えは、「汝を空にしなさい、そうすれば私は汝を満たすであろう」です。

自己が死ぬまで、神性な愛を知ることはできません。なぜなら、自己は愛の否定であるからです。では、なぜ神性な愛の否定が起き得るのかといえば、それは、魂の墓場から自己の石が転がり出て消え去るまでは、それまで十字架にかけられ、死んで葬られていた不滅のキリスト、愛の純粋な精神が、無知の縛りを解きほどき、復活の威厳をもって姿を現すことはないからです。

あなたは、ナザレのキリストが死に追いやられた後、蘇ったことを信じています。私はあなたのこの信心が誤りであるとは言いません。しかし、もしあなたが、愛の優しい精神が、あなたの利己的な欲望という暗い十字架に毎日はりつけにされていることを信じないのなら、私は、この事実を信じないことにおいてあなたは誤っており、キリストの愛をまだ理解しておらず、それから遠く離れていると言うほかありません。

あなたは、キリストの愛による救いを味わったと言います。では、あなたは、自分の短気、苛立ち、虚栄心、個人的な好き嫌い、他人を判定し非難することから救われていますか。もしそうでないなら、あなたは何から救われ、どこで姿を変えたキリストの愛を実感したというのでしょうか。神性なる愛を実現した人とは、新しい人間となり、古い自己に揺さぶられ支配されることを止めた人です。そのような人は忍耐力、純真さ、自制心、深い慈愛、そして変わらぬ優しさで知られることになります。

神性の愛、無私の愛とは、単なる感情や情緒などではなく、悪の支配や悪への信仰を打ち砕き、魂を至高の善の喜びの実現に導く知識の会得を指すのです。神性なる賢者にとって、知識と愛は一体であり、切り離すことができないものなのです。

この神性の愛を完全に実現するために、全世界が動いているのです。宇宙が存在するようになったのは、この目的のためであり、幸福をつかむこと、目的、アイデア、理想に向かって魂を成長させることはすべて、この愛を実現するための努力なのです。しかし、世界は現在、この愛を実現していません。なぜなら、すぐに消えゆく影をつかみ、その盲目ゆえに、実体を見ようとしていないからです。そして、苦しみと悲しみは続き、世界が自ら招いた苦痛に教えられ、無私の愛、穏やかで平和に満ちた知恵を発見するまで、その苦痛は続かざるを得ないのです。

そして、この愛、この知恵、この平和、この穏やかな精神と心の状態は、進んで自己を放棄する準備ができていて、自己を放棄することが含むすべてのことを謙虚に理解する準備ができている人によって達成され、実現されるものです。

宇宙には専横な力は存在せず、人が縛られている最も強い運命の鎖は、自らが造り上げたものです。人が苦しみを引き起こすものに鎖でつながれているのは、そうありたいと願い、その鎖を愛し、自己の小さな暗い牢獄を甘く美しいものと思い、その牢獄を捨てたら価値のあるものすべてを失うと恐れているからです。

「あなたがたは自ら苦しむのであって、他の誰も苦しみを強制したりしませんし、他の誰もあなたがたの生死を束縛したりはしません。」

鎖を鍛えて造り、その周りに暗く狭い牢獄を築いた自分の中の力は、そうしたいと望み、そのつもりになれば、それを突き崩すこともできます。魂は、牢獄の無意味さを発見し、長きにわたる苦しみの果てに無限の光と愛を受け入れる準備をしたとき、そうすることを決意します。                                                                                                                                       

影が形を追い、煙が炎の後に来るように、結果は原因に続き、苦しみと至福は人の思考と行いに従います。私たちを取り巻く世界には、隠されているにせよ、あるいは明らかであるにせよ、原因のない結果はありません。そして、その原因と結果は絶対に見合ったものになっています。人は近い過去か遠い過去に悪の種を蒔いたからこそ、苦しみの収穫を得るのです。また、人は自ら善の種を蒔いた結果として至福の収穫を得るのです。このことをよく考え、努めて理解すれば、人は善の種だけを蒔くようになり、以前は自分の心の庭に生えさせていた雑草を焼き払うことになります。

世間の人は無私の愛を理解していません。なぜなら、世間の人は自分の快楽の追求に夢中で、狭い範囲の滅びゆく利害に束縛され、その無知ゆえに、それらの快楽や利害を本物の永続するものだと誤解しているからです。肉欲の炎に捕らわれ、苦悶に燃やされ、真理の純粋で穏やかな美しさを見ることがありません。誤りと自己欺瞞の意地汚いかすを餌にしていて、すべてを見通す愛の館から締め出されているのです。

この愛を持たず、この愛を理解しないまま、人は内なる犠牲を伴わない無数の改革を行い、それぞれが自分の改革が永遠に世界を正すものであると想像していますが、その実、自分自身は心の中で悪に加担して悪を広め続けています。

人間の心を改革するようなものだけが改革と呼べるものなのです。なぜなら、すべての悪は心の中で発生するからです。そして、世界が利己主義と党派争いをやめて、神の愛の教訓を学ぶまでは、普遍的な祝福の黄金時代が実現することはないでしょう。

金持ちは貧乏人を軽蔑することをやめ、貧乏人は金持ちを非難することをやめ、貪欲な者は与えることを学び、淫乱な者は清くなることを学び、徒党を組む者は争いをやめ、無慈悲な者は許すことを始め、嫉妬深い者は他人とともに喜ぶよう努力し、中傷する者は自分の行為を恥じるようになりましょう。男も女もこの道を歩めば、見よ! 黄金時代はすぐそこです。それゆえ、自分の心を浄化する人は、世界の最も偉大な恩人といえます。

まだ、世界は今も、そしてこれから先も、無私の愛を実現する「黄金の時代」からかけ離れたままでしょうが、もしあなたが望むなら、利己的な自己の上に立ち、今そこに入ることができます。ただし、偏見、憎しみ、非難から、優しく寛容な愛へと移行するならばです。

憎しみ、嫌悪、非難があるところには、無私の愛は存在しません。それは、すべての非難をやめた心にのみ存在するものです。

あなたは言います。「酒飲み、偽善者、こそ泥、人殺しをどうして愛せるだろうか。私はそのような人間を嫌い、非難せざるを得ないのです」と。あなたが感情的にそのような人を愛することができないのは事実でしょう。しかし、あなたが彼らを必然的に嫌ったり非難したりせざるを得ないと言うとき、それは、あなたがすべてを支配する大いなる愛をまだ知らないことを示しています。なぜなら、そのような人々がそのようになった一連の原因を理解し、彼らの激しい苦しみに同情し、彼らもやがては確実に浄化されることを知ることができるような悟りを得ることは可能なことなのですから。そのような悟りを持つと、彼らを嫌ったり非難したりすることはもはやまったく不可能になり、常に完全な落ち着きと深い思いやりで彼らのことを考えるようになります。

もし、あなたが人を愛して、その人を褒めていたのに、その人があなたを妨害したり、あなたが反対するようなことをすると、その後、その人を嫌って、悪く言うなら、あなたは神の愛の支配下にはないのです。もし、あなたが心の中で、他人を非難し続けるなら、無私の愛はあなたから隠されたままです。

愛がすべてのものの内に存在し、その愛の、すべてを満たす力を理解した者の心の中には“非難”が存在する余地はありません。

人はこの愛を知らず、永遠の裁判官と執行官がいることを忘れて、自分自身を裁判官であり執行官であるとうぬぼれ、他人が自分たちの見解、自分たちの特定の改革と方法からそれていれば、彼らを狂信的でバランスを崩した、判断や誠実さ、正直さを欠いた者と決めつけ、他人が自分の是しとするものに近づけば、彼らを賞賛すべき者と見るのです。そのような人は、自己中心的な人です。

しかし、その心が至高の愛の中にある者は、人に烙印を押したり人を分類したりせず、人を自分の信条に転向させようとしたり、自分の方法の優位性を納得させようとしたりはしません。愛の法則を知り、それを実践し、すべての人に対して同じように穏やかな態度と心の優しさを持ち続けます。それゆえ、堕落した者も高潔な者も、愚かな者も賢い者も、学びし者も学ばざる者も、利己的な者も利己的でない者も、等しく、彼の静かな思念の恩恵を受けるのです。                                       

この最高の知識、この神性な愛へは、絶え間ない自己鍛錬の努力と、自分自身に対する勝利につぐ勝利によってのみ、到達することができるのです。心の清い者だけが神を見ることができます。あなたの心が十分に清められたとき、あなたは生まれ変わり、死ぬことも、変わることも、苦痛と悲しみに終わることもない愛があなたの中に目覚め、あなたは平安になるのです。

神性な愛の達成を目指す者は、常に他人を非難する心を克服しようとしています。なぜなら、純粋な霊的知識があるところには非難は存在できず、非難ができなくなった心においてのみ、愛は完成され、完全に実現されるからです。

キリスト教者は無神論者を非難し、無神論者はキリスト教者を風刺しています。カトリックとプロテスタントは絶え間なく論争しており、平和と愛があるべきところを、争いと憎しみが支配しています。

「兄弟を憎む者は殺人者」であり、神性な愛の精神を十字架につける者です。いろいろな宗教を信じる人たちや無宗教の人たちを同じく公平に、嫌悪することなく、完全な平静心で見ることができるようになるまで、あなたは、あなたに自由と救いを与えてくれる愛のためにまだまだ努力しなければなりません。

真理の知識と無私の愛の実現は、非難する心を完全に克服し、すべての悪を払いのけ、愛と善と正義が普遍的で、最高で、すべてを征服し、不滅であると思える純粋な洞察力の高みにまで意識を高めてくれます。精神を強く、公平で、優しい思考で鍛え、心を清らかな同情心で鍛え、舌を沈黙と真実の汚れなき発言で鍛えれば、神性と平安の道に入り、最終的に不滅の愛を実現することができます。そのように生きれば、回心させようとしなくとも、説得でき、議論しなくとも、教えることができ、願わなくとも、賢明な機知が臨み、世論を得ようとせずとも、彼らの心を従わせることになるでしょう。というのも、愛はすべてを征服するもの、すべての力を持つものであり、愛の思い、行い、言葉は決して滅びることはないからです。

愛が普遍的であり、至高であり、すべてを満たすことを知ること、悪の束縛から解放されること、内なる不安から解放されること、すべての人がそれぞれの方法で真理を実現しようと努力していることを知ること、満足し、悲しまず、安らかであること、これが平和であり、喜びであり、不滅であり、神性であり、これが無私の愛の実現です。

私は海岸に立ち、岬が巨大な海の猛攻撃に抵抗しているのを見ました。永遠にわたっていかに数え切れないほどの衝撃に耐えてきたのかを考えた時、私は言いました、「この堅固な岬をすり減らすための、波の絶え間ない努力は無駄である」と。  

しかし、私は波が岩をいかにして引き裂いたのかを考え、そして、私の足元の波打ち際で放り投げられ転がされている砂と小石(これまでの、はかなき受け身の抵抗の残滓)を見、それから、波の下の状況を見た時、私は波が岩を自らの奴隷にしていたことを知りました。

私は、忍耐強き柔らかさと絶え間なき満ち引きによって、波が起こした力強い仕事を見ました。

何とまあ、海の水は誇り高き岬を足下に引き寄せ、巨大な丘を低くしたことか。

何とまあ、柔らかな滴(しずく)が堅固無比な壁を征服し、それを瓦解させたことか。

そのとき、私は頑なに抵抗する人間の罪は、その魂の高慢な岩に、柔らかく行ったり来たりして、流れつづける愛に最後には屈することになることを知りました。

魂のすべての抵抗は過ぎ行き、過去になるべきであることを。

そして、すべての心は最後には愛に屈することを。

第5章「無限に入る」はこちら

タイトルとURLをコピーしました