4-4.人間とはいかなる存在か

人間とは神が自己表現のために必要とする存在であるといえます。神は思いひとつでさまざまな鉱物、植物、動物を創造していますが、そのいずれも神自身の思いの現象化ですから、それらを観たところで神には何の感慨も湧きません。宇宙を劇場の舞台に例えるなら、目の前の舞台でさまざまに演じている存在はすべて神自身が設定したとおりの動きをしているだけに過ぎないからです。

ところがここで、神自身と同じく、何の制約も受けない100%の自由性を持った存在を数多く創り、舞台に投入したらその劇はどのようなものになるでしょうか。きっと神にとって新鮮な予期せぬ動きが次々に生まれ、観て喜びを感じる面白い舞台になるに違いありません。この、神に観る喜びや楽しみを与える100%の自由性を持った存在が人間であり、しかもその人間の思いを現象化しているのは神の光、すなわち神自身に他なりませんので、舞台劇全体が実は神の自己表現になっているということです。これが人間とは神の自己表現に欠かせない存在であるということの意味です。

ここで一つ心配になるのは、劇の出来映えです。数知れない人間が各々100%の思いの自由性を発揮するのですから、その演劇が本当に観るに値するものになるのか、収拾のつかない失敗劇になったりはしないのか気になります。しかし、心配はご無用です。なぜなら、神は人間の創造にあたりその進化の最終到達点を神への帰一に定めておられるからです。つまり、その過程において100%の自由性をもとに人間が善悪こもごもの思いを発したとしても、永遠ともいえる長い目で見れば、人間は確実に善一元の神に向かうようになっているということです。この大団円、フィナーレに向かって劇は展開していくのですから、それは駄作に終わることのない、きっと観ごたえのあるものになるに違いありません。

以上、人間とはいかなる存在かについて神との関係性も含めて簡潔に述べましたが、この点に関して、トーマス・トロワードは『The Dore Lectures on Mental Science』の第2章「高次の知性が低次の知性をコントロールする」で次のように論述しています。

「個別的存在である私たち人間は、神が必要とするものです。人生のすべての問題は、私たちと神との真の関係を見つけることにあります。そして、これを知るための最初のステップは、神がいかなる存在であるかを理解することです。私たちはすでにこれをある程度探究してきましたが、到達した結論は次のとおりです。

・神の本質は生命、愛そして美であること。

・神の心は、その本質である生命、愛、美を表現することにあること。

・普遍的なる神は、個別的存在となり(個別的存在を創造し)、それを通してしか自己表現することはできないこと。

この三つの公理を明確に把握することが、私たち人間という「個別的存在」とは、いったい如何なるものであるかを知る確かな基礎知識となります。

まず、自然に湧いてくる疑問が一つあります。それは、もし三つの公理が正しいものであるならば、なぜ私たち一人ひとりが神にふさわしい愛と美を表現していないのかということです。この疑問に対する答えは、「意識の法則」なるものの中に見出せます。私たちは、何事も、それと自分との関係を認識することなしには、その存在を意識することはできません。さらに言えば、その存在が私たちに何らかの影響を与えないことには、私たちがその存在を意識することはありません。私たちはその存在が私たちに与える影響に応じて、自分がその存在と関係していることを認識するのです。そして、精神的、知的、あるいは肉体的とを問わず、すべてのものとの関係性に対する私たちの自己認識こそが私たちの生命の表現、人生そのものになるのです。

さて、この原則から言えることは、唯一無二の神にとって自らの生命を表現するためには、神である自分との関係を認識できる個別的存在を創り出す必要があるということです。そして、この神の自己表現は個別的存在が神に対して完全な自由性を有する場合にのみ、完全なものとなり得ます。

個々の生命が独立した行動の中心であり、肯定的に行動することも否定的に行動することも可能であることに比例して、創造性のレベルは高くなり、それらは真の表現となり得ます。それゆえ、人間は神に対して肯定的な関係のみならず否定的な関係をも自由に持つことができるように創られているのです。そうでなければ、人間はただの時計仕掛けの人形に過ぎません。そして、この自由性こそが、神の生命、愛、美がすべての人間の中に目に見える形で再現されない理由なのです。もし、人間に内在する神の属性が機械的、自動的なものであれば、自然界においてそのとおりに再現されます。しかし、神の属性の完全な再現は、強制ではなく神そのものの自由と同じ自由、すなわち、肯定することも否定することもできる選択の自由のもとに行われるべきものなのです。」<『The Dore Lectures on Mental Science』第2章の私訳より>

唯一無二の神にとって自身を束縛するような存在はあり得ませんので、神の自由性は無限です。神の創造性もまた無限ですが、それは100%の自由性があってのことなのです。その神が人間を通じて自己表現をしようとすれば、人間にも100%の自由性を与えるのは理の当然といえます。因みに、唯一無二の絶対的存在である神の選択は「神自身の肯定、すなわち、神の属性の肯定」一択しかあり得ません。

これに対して、私たち人間は複数性と多様性を有する相対的存在であることから、自分と相性のよい人もいれば、相性のよくない人もいます。その割合は「パレートの法則」ではありませんが、ざっくりいって相性のよい人2割、悪い人も2割、よくも悪くもない中間の人6割といえるのではないでしょうか。そして、相性のよい人や身内に対しては身びいきをし、そうでない人に対しては何かと粗探しをしては批判したり、中傷したりします。また、他者との関わりの中で相手を憎んだり、嫉妬したり、ライバルを讒言(ざんげん)したりといった倫理に悖る生き方をしがちです。さらには、この世への転生に際して過去世の記憶を封印されていること、そして、この世からあの世は見えないことなどから、真理を知らなければ、この世的な視点でしか物事を見たり、考えたり、判断できない環境下に生きています。その結果、自分のホームグランドであるあの世や自分の創り主である神の存在を否定したり、時には他人のみならず自分をも否定したりします。しかし、そのような私たちも長い目で見れば、着実に神に向かっての進化の道筋を歩みつつ、神の自己表現の一要素になっているということです。

ところで、「否定から肯定は生まれない」という真理からいって、上述したような否定的な想念で生きていてよいことは何もありませんので、つねに自分の感情や思いをチェックし、正しい方向に向け直す意識を持つことが自分の幸福化にとって極めて大事な心掛けといえます。そして、チェックする際の一番分かりやすい基準は「神はこんなことを思われるかどうか」「神がこんなことをされるかどうか」ではないかと思います。換言すれば、「神の属性にそれはあるか」「神の働きにそれはあるか」ということです。

神の属性、あるいは神の働きを原理といいます。生命の原理はあっても死の原理はありません。愛の原理はあっても憎しみの原理はありません。祝福の原理はあっても嫉妬の原理はありません。知の原理はあっても無知の原理はありません。富の原理はあっても貧の原理はありません。真の原理はあっても嘘偽りの原理はありません。善の原理はあっても悪の原理はありません。肯定の原理はあっても否定の原理はありません。

結局のところ、「人間とはいかなる存在か」という命題に対する解答は、人間とは神との一体化という最終目標に向かって、原理に適った生き方を身につけることを神から期待されている存在であるということです。そして、私たち一人一人の生命の現れである自己実現が神の自己表現の一要素になっているということです。

4-5「神の化身の存在」へつづく

タイトルとURLをコピーしました