4-3.神とはいかなる存在か

前項で述べたことと一部重複する点もありますが、神とはいかなる存在であるかを一言でいえば、私たち人間を含む全宇宙の創り主です。そして、この前提に立てば、万物が誕生する以前には神しか存在していないわけですから、神とは唯一無二の存在であるといえます。もし、神が一体ではなく二体存在していたと仮定すれば、その有限の二体の神を創ったのは誰かということになりますから、結局、根源の神は一体しかあり得ないという結論になります。それゆえ、神とは唯一無二にして単一的存在であるということです。さらに、相対的存在とは他の存在に依存しなければ存在し得ない存在であるという意味ですから、神は相対的存在と対置される絶対的存在であるということです。なぜなら、神は唯一無二であるがゆえに、いかなるものにも依存することはないからです。

ところで、相対的世界の現われの一つであるこの世を見れば分かるとおり相対的存在とは有限の存在です。有限とは、具体的にいえばお互いに他者の制約を受けるということです。椅子取りゲームではありませんが、他者が座っている椅子には、その他者を退けない限り、自分が座ることはできません。その理由は、自分が占める空間は他者の占める空間と重なることができないからです。これが有限な相対的世界の特徴の一つです。しかし、同じ相対的世界でも、この世とあの世とでは様相が異なります。あの世では縦×横×高さといった物体的なものではなく人霊としての思考(想念)波動による制約を受けます。すなわち、波長同通の法則により、自分の出す波動に応じて仏教的にいえば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏といった階層に別れて存在することになります。上層階になればなるほど波動は精妙なものになります。そして、あの世においては、階層の上から下へ行くことは可能ですが、下から上へ行くことはできません。その理由は階層間に認識力あるいは悟りの壁があって、上の階層に行くには自分の認識力あるいは悟りを高めるほかないからです。自らの心の波動を意図的に調整し、下げることはできても上げることはできないということです。仏(如来)であれば波動を下げて菩薩界に赴き、菩薩たちを指導することが可能ですが、菩薩が如来に会うために自らの波動を上げることは一朝一夕にできることではありません。例え話をすれば、実力の差が歴然としているため、プロの野球選手が草野球の選手を指導することは可能でも、草野球の選手がプロの世界へ入ることはできないということです。

また、この世は空間の制約とともに時間の制約も受け、万人が現在只今という同じ時間を共有しています。しかし、あの世では時間の制約を受けることがありません。どういうことかといえば、あの世は認識力がすべての世界ですので、自分が生きた平安時代で時間が止まったままの人もいれば、江戸時代で時間が止まったままの人もいるということです。各人各様に自分の認識力に見合ったそれぞれの階層や領域において、この世からあの世に戻った時の個性のままに人霊として存在しているということです。ある程度以上の認識力のある人は、あの世でもこの世の時代の流れや変化を見たり学んだりして、認識力のアップデートができていますが、そうでない人も多いということです。

さて、有限の相対的世界の説明が少し長くなりましたが、話を「神とはいかなる存在か」というテーマに戻しますと、相対的世界や相対的存在が創られる以前には神のみしか存在していませんので、神とは無限なる存在であるといえます。もし、神が無限ではなく有限の存在であると仮定すると、神は相対的な存在となってしまい、その神を無から創った絶対者はいったい誰なのかという矛盾に陥るからです。したがって、「神とはいかなる存在か」という命題の基本的な答えは、「神とは唯一無二にして単一的かつ絶対的な無限なる存在である」ということになります。

では次に、その神の属性あるいは作用とはいかなるものかといえば、おおよそ私たちの多くが共通して思いつくよいものすべてです。具体的には次の表に示されるようなものといえます。

なお、トーマス・トロワードは「神とはいかなる存在か」について『The Edinburgh Lectures on Mental Science』の第16章「精神」において、次のように論述しています。

「根源の神は、それ自体、何でなければならないか。それが私たちの目の前にある問題です。まず、疑う余地のない事実から始めましょう―それは創造的な力です。もしそれが創造的な力でなければ、何一つ存在することはできなかったでしょう。したがって、その目的、あるいはその本質は、個々の生命を存在させ、それらの生命に適した環境を与えることでなければならないことがわかります。

さて、このことを本質とする力は、親切な力に違いありません。この生命の精神そのものである神が個々の生命で表現しようとしているその意図は、「それらが生命を持つように、またそれらが生命をより豊かに持つように」ということ以外考えられません。その逆を仮定すると、矛盾が生じます。なぜなら、そのような仮定は生命の精神そのものとしての神が自分自身の逆を表現しようとしていると考えることになるからです。生命の精神である神が生命の増進以外のことを意図しているとは到底考えられません。

この事実は、私たちが神の子としての自分の立場を不完全にしか理解しておらず、その結果、唯一無二の永遠の生命である神と意識的に一体化することができないために、まだ十分には認識できていないかもしれません。しかし、私たちの神との意識的な一体感がより完全なものになればなるほど、神の生命を与えんとする本質がより明らかに認識できるようになることでしょう。この宇宙に遍満している全ての存在を創り出している神の本質が肯定的で純粋に生命を与えんとするものであることは紛れもない真理です。

さて、では神の持つこのような様々な個別的存在の生命をより豊かにしたい、つまり、より強く、より明るく、より幸福にしたいという本質的な願いを、何と呼べばいいのでしょうか。これが「愛」でないとしたら、他に何と呼べばよいか分かりません。それゆえ、私たちは哲学的に「愛」こそが創造的な神の本質であるという結論に導かれます。しかし、表現は形なしでは不可能です。では、愛はその表現手段としてどのような形式を取るべきでしょうか。一つの仮説として、憎しみや嫌悪を抱かせるような形式では、愛の自己表現にはなりません。それゆえ、愛に対する唯一の論理的な形式はけっして憎悪や嫌悪感を与えることのない美ということになります。そして、美がまだ普遍的に現れていないのは、生命がそうでないのと同じ理由からです。すなわち、自分は神から生命を与えられた存在であり、その本質は愛であり美であるという真理を万人がまだ認識していないからです。しかし、「美の原理」が神に内在していることは、私たちの住む世界にあるすべての美的な存在によって証明されています。」<『The Edinburgh Lectures on Mental Science』第16章の私訳より>

このようにトーマス・トロワードは神とは全存在の生命の源であり、その本質は愛であり、美であると洞察しています。

4-4「人間はいかなる存在か」へつづく

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