最初に、潜在意識の私たち人間に対する具体的な働きを列挙すれば、次のとおりです。
① 生命体の維持
② 進化の方向付け
③ 思考の現象化
④ 幸不幸感覚の送信
①生命体の維持とは、私たち人間を生かしめんとする働きです。マクロ的に見れば、この地球という自然環境の精緻な仕組みや鉱物、動植物の存在そのものが人間を育まんとする神の意図の表れと理解することができるのではないでしょか。ミクロ的には人間の肉体諸器官の絶妙な連携システムの構築です。私たちの意思とは関係なく、心臓は動いていますし、私たちは熱さや痛みを感じ、火傷や切り傷を負ってもやがてその傷はふさがり、治ります。自然治癒力一つとっても何ものかが私たちを生かしめんとしているのは明らかといえます。その何ものかが神の意識、すなわち潜在意識の働きの一つであるというわけです。これを偶然の産物という考え方もあるかもしれませんが、偶然ではないという考え方もあります。偶然に家が建つということはあり得ません。家を持ちたい、建てたいという思いが最初にあって、それを設計図に起こして、そして家が建ちます。宇宙や人間の存在も同様と考えられます。神が宇宙を創ろう、人間を創ろうと思い、それをデザインしたからこそ宇宙と人間が存在していると考える方がよほど合理的であるように思われます。
②の進化の方向付けとは、神の人間に対する最終の目標設定であり、期待です。善と悪の拮抗する相対的世界において心を練り上げて善一元となり、私たちの一人一人がいずれの日にか神へと帰一することを神は期待しておられるのではないでしょうか。神の思いがそこにある以上、ときには地獄に堕ちて後退することがあったとしても、私たち人間は大枠では最終目標に向かって、緩やかながら前進し続けるよう導かれているということです。神を信じるも自由、神を信じないも自由という100%の自由性を与えられた私たちが、神の期待に反して地獄的世界を拡大し続けていても、許しの目で見ておられる神に思いを馳せれば、このように結論付けることができるように思います。神の無限の寛容性の奥にあるのは神の確固たる自信なのです。そもそも神の子である以上、一時的に悪魔的存在になることはあったとしても、それは永久に続くものではないということです。
マクロ的な視点で見れば、このことがよく分かります。神が全宇宙を創造するにあたって、いずれこの宇宙が混乱と破壊のうちに終末を迎えることを思い描かれたとは到底思えません。神は宇宙の限りない調和ある発展と拡大を観想されたに違いありません。マクロがそうであるなら、ミクロの存在である神の自己表現の代理人としての私たち人間も神に向かって無限に進化し続けるように方向付けられているということになります。
以上の①生命体の維持と②進化の方向付けについて、トーマス・トロワードは『The Edinburgh Lectures on Mental Science』の第13章「潜在意識とのコンタクト」で次のように簡潔に述べています。
「『精神科学に関するエジンバラ講義』の第12章までの学びで、私たち にとって潜在意識への対応の仕方が計り知れないほど重要であることがある程度認識できたと思います。
個人的なスケールであれ、普遍的なスケールであれ、潜在意識に対する私たちの関係は、私たちの人生においてすべての鍵となります。
特に認識されることがなければ、潜在意識は私たち個人の心と身体のすべての作用を自動的に司どっており、普遍的スケールでは、それは私たちを徐々に、さらなる進化へと向かわしめる静かな力として働いています。
しかし、この潜在意識の働きを知的に認識することができれば、私たちはこの潜在意識を自分自身のあらゆるもののために活用することができます。
潜在意識との関係が深まれば深まるほど、身体の健康であれ生活環境(経済的状況や人間関係など)であれ、これまで自動的な作用(自然の成り行き)と考えられていたものが自分のコントロール下に置かれるようになり、ついには自分に関わるすべてをコントロールできるようになります。
これは途方もない福音であり、それゆえ、潜在意識にどのようにして実際にコンタクトするかということが、大変重要な問題となります。」<『The Edinburgh Lectures on Mental Science』第13章の私訳より>
③思考の現象化
私たち個人の潜在意識としての神の働きの三つめは私たちの思考の厳密な現象化です。厳密である理由は、思考に反応して姿かたちを現すこと自体が神の光(=神)の本質に他ならないからです。私たちはともすれば「神が粘土をこねて人間を創られたという」創世記などの記述から、神が何らかの素材を使って創造する姿をイメージしがちですが、そうではありません。実は粘土自体が神そのものなのです。そして神であるところの粘土(神の光)は神の思考であれ、人間の思考であれ、思考に反応して相対的世界に形を現すという性質を持っています。だからこそ、神は自己表現の代理人として人間を創られたという言葉があるのです。ここで知っておくべき大事な視点は、(方便として一粒という言葉を使いますが)神の光の一粒一粒が全体の神でもあるということです。なぜなら、神は唯一無二の単一にして無限の存在であるからです。無限とは足したり引いたり、掛けたり割ったりすることができませんので、無限のどの部分を取っても常にそこが全体の中心となります。神を小分けにすることはできないのです。神は全体にして部分、部分にして全体なのです。この普遍的で無限なる神の光が神の思念・思考によって相対的世界に現象化して姿かたちを現したものが宇宙であり、植物であり、動物であり、人間であるということです。「神は枯れ葉一枚落ちるもご存じ」というのはこの事実を指します。枯れ葉を構成している究極の素材は神の光に他ならず、その神の光は一部かも知れませんが、それは神全体でもあるのですから、その枯れ葉が落ちるのを神は当然ご存じということになるわけです。
ちなみに、神が唯一無二の存在である事実は、神が思念によって無の状態から宇宙を誕生させる以前は、神しか存在しなかったことから容易にわかります。この事実が、神が唯一無二であり、かつ、他の存在が存在しなくても存在し得る絶対的存在であるといわれる所以です。また、神が無限であることの事実は、もし、神が有限の存在であると仮定すると、それは神が自と他を分ける境界面を持つことを意味し、唯一無二の存在ではなくなることからわかります。神の唯一無二性と無限とは同義なのです。そして、無限は分割することができませんので、神はまた単一的存在でもあるということです。比喩的にいえば、神は青空にぽっかり浮かぶ有限の白い雲などではなく、どこまでも果てしなく無限に広がる青空のようなものであるということです。それゆえに、神の光、神の生命、神の愛、神の叡智、神の富も無限といわれるのです。
さて、私たちの思考や思念は空間や時間の束縛や制限を受けるものではありません。ということは、それは無限の絶対的領域において作用するものであるということです。なぜなら、空間や時間の束縛あるいは制限を受ける世界を相対的世界、受けない世界を絶対的世界というからです。私たち人間は唯一無二の絶対的存在でもなく、無限でもなく、単一的でもなく、複数性と多様性を持った有限の存在です。しかも、神なしでは存在し得ませんので相対的存在です。しかし、私たちの思考のみは神からの制限を受けることもありません。すなわち、私たちは神と同じく何でも自由に思い考えることができる特殊能力を神から与えられることによって、絶対的世界と相対的世界をつなぐ特異な存在として創られているということです。
この私たちの思考を現象化するのが神の三つ目の働きであるわけですが、言い方を変えれば、(いささか不遜に聞こえるかもしれませんが)私たちは神を自分好みに演じさせているということです。事実、神から与えられた100%の自由性により、私たちは神をいかようにも演じさせることができます。しかし、これには当然反作用が生じます。私たちの思考が肯定的であれば、肯定的な結果が、否定的であれば、否定的な結果が生じることになります。
ところで、私たちを生かし育まんとしておられる神、また、私たちに対して神という目標に向かっての無限の進化向上という方向性を定められている神が、ただただ私たちの思考を現象化するだけで是しとされているとは思えません。なぜなら、目標が定められていてもフィードバックシステムが確立していなければ、目標に到達することは不可能であるからです。フィードバックシステムの重要性を示す身近な例はコンパス(方位磁石)です。砂漠を横断する際、コンパスがなければ、目的地から大きく逸れていつの間にか出発点に戻ってしまったり、とんでもないところに行ってしまったりするようなことが起きてしまいます。私たちが正しく進化の目標点に向かって歩んでいるかどうかを教えてくれるフィードバックシステムが「幸不幸感覚の送信」という潜在意識の四つ目の働きになります。
④幸不幸感覚の送信
私たちは神の本質に合った善なる思いと行いで生きているときには幸福感覚を、それに反した悪なる思いと行いで生きているときには不幸感覚を味わうようになっています。それは私たちが神の子人間として正しい道筋にあるかどうかを、神(潜在意識)が親切にも教えてくださるからです。
私たちが神の本質に合った思いや行いをなしているとき、天使は微笑んで見守ってくれています。その反対にあるときは、悪魔がほくそ笑んでいます。その思いや行いの主なものを対比させれば次のようになるかと思います。

この事実を『引き寄せの法則-エイブラハムとの対話』の中でエイブラハムは次のように説明しています。ちなみに、これから紹介する記述の中の「しかし、あなたは立派にやっている、あなたは賢明だし、永遠に価値ある存在だというのが「内なる存在」の見方だから、あなたとあなたの「内なる存在」の見方には決定的な不一致が生じる」という箇所からも、神には否定という概念がないことがよく分かります。
「あなたがたはこの物質世界の身体以上の存在だ。実はあなたがたは物質世界のすばらしい創造者であると同時に、別の次元でも存在している。あなたがたの一部、見えない部分-わたしたちはそれをあなたがたの「内なる存在」とよぶ-は、あなたがたが物質世界の身体に宿っているたった今も存在する。
あなたがたの感情は、「内なる存在」とあなたがたとの関係を示す物質世 界での指標である。言い換えれば、ある対象に思考の焦点を定め、それについて具体的な見方、具体的な見解を持ったとき、「内なる存在」もそれに焦点を定め、ある見方、ある見解をとる。そのときにあなたが何を感じるかで、両者の見方が一致しているかどうかがわかる。例えば何かが起こり、あなたはもっとうまくやれたはずだとか、自分は愚かだった、自分はダメな人間だと考えたとする。しかし、あなたは立派にやっている、あなたは賢明だし、永遠に価値ある存在だというのが「内なる存在」の見方だから、あなたとあなたの「内なる存在」の見方には決定的な不一致が生じる。それであなたはその不一致を「ネガティブな暗い感情」という形で感じ取る。一方、あなたがプライドを持ち、自分自身や誰かを愛しているとき、あなたの見方は「内なる存在」のそれにずっと近くなるから、誇りや愛情や感謝という「明るい前向きの感情」を抱く。
あなたの「内なる存在」あるいは「ソースエネルギー」は、いつもあなたにとっていちばんためになる見方をするし、あなたの見方がそれに一致すれば肯定的な引き寄せの力が働く。言い換えれば、あなたの気分がよければそれだけあなたの「引き寄せの作用点」もいいし、いいことが起こる。あなたの見方と「内なる存在」の見方の波動の相対的な関係。これがいつでも利用できる素晴らしい「指針」なのだ。 「引き寄せの法則」は常にあなたの波動に作用しているから、あなたが望むものを創造するプロセスにあるか、それとも望まないものを創造しているかは、感情に気をつければわかる。このことを知っていると、とても役に立つ。」<吉田利子訳『引き寄せの法則-エイブラハムとの対話』(2007年)SBクリエイティブ(株)P.70>
潜在意識(私たちの内なる神、内なる存在)の働きが分かったところで、後先になったかもしれませんが、次に「神とはいかなる存在か」を考察してみたいと思います。