4-1.神と人間の心の作用の違い

唯一無二の単一にして無限かつ絶対的なる存在である創造主(神)の主観的な心の作用と、神から創られた相対的存在である人間の客観的な心の作用には明らかな違いがあります。この違いは絶対的存在か、それとも相対的存在かによるものです。

無限の絶対的世界には神以外に存在しているものは何もありませんので、発想の際の参考になるものもなく、「こうすれば、どうなるか」と考えるその対象となるものもありません。そのため、神の心の働きには、観察、比較、分析、結論づけ、あるいは忖度といった要素はありません。すなわち、帰納的な思考方法はないということです。また、神の思考に制約を課す存在ももちろんあろうはずがありません。なんの束縛もなく、あるのは完璧な自由性のみですから、その発想は唯一の存在である神自身の生命原理に基づく「かくあれかし、かくなるべし」といった主観的かつ演繹的なものになります。これが神の心の働きです。

これに対して、相対的存在である私たち人間は創られた瞬間からその他大勢の中の一人です。しかも、人間は神による一連の創造の最終段階で創られましたので、すでに山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もいます。それも1種類や2種類ではなく、数え切れないほどの種類ですし、人間より大きなものもいますし、はるかに小なものもいます。人間をとってみても肌の色が一緒ではありませんし、体の大きさや容貌も異なります。男性と女性の区別もあります。このような環境下で知性を持てば、その思考の働きがどのようなものになるかは容易に想像できます。まず、観察から始まり、比較、分析、結論づけといった帰納的な思考方法になるに違いありません。これが人間の心の働きです。ただ、人間の場合には、これに演繹的な心の働きも加わります。それはなぜかといえば、個人であれ、集団であれ、ある規範が確立すれば、それに照らして「かくあるべし」あるいは「かくなるべし」といった思考方法を取ることになるからです。卑近な例を示せば、宗教的価値観から見て「そんなことをするとバチが当たる」とか、法律に照らして「そんなことすると刑務所行きになる」といった類のことです。これが人間の演繹的な心の働きの一例です。

この点についてトーマス・トロワードは『The Edinburgh Lectures on Mental Science(精神科学に関するエジンバラ講義)』の第4章Subjective and Objective Mind(主観的な心と客観的な心)の中で形而上学的に次のように述べています。

「主観的な心は演繹的にしか推論できず、帰納的には推論できませんが、客観的な心はその両方ができます。演繹的推論とは、他の2つの命題を仮定した場合に、なぜ3つ目の命題が必然的に生じるのかを示す純粋な三段論法ですが、最初の2つの命題が真であるか否かを判断するのには役立ちません。これを判断するのは、一連の事実を観察したうえで結論を導く帰納的な推論の領域です。この2つの推論方法の関係は、まず十分な数の事例を観察することによって、ある原理が「一般的」に適用できるという結論に帰納的に到達し、次にこの原理の真実性を仮定し、その真実性の仮説に基づいて「特定」の場合にどのような結果が生じるべきかを決定する演繹的プロセスに入るというものです。このように、演繹的推論は、ある仮説や仮定の正しさを前提にして進められます。それは、それらの仮説の真偽を気にすることなく、それらが真であると仮定した場合に、どのような結果が必然的に生じるかということを推論します。一方、帰納的推論とは、かなりの数の異なる事例を比較して、それらを生み出す共通の要因を見出すプロセスです。帰納法は事実の比較によって行われ、演繹法は普遍的な原理の適用によって行われます。主観的な心が行うのは演繹的な方法だけです。催眠状態にある人を対象とした無数の実験により、主観的な心は、帰納的プロセスに必要な選択と比較を行うことが全くできないことが示されています。しかし、間違っていようとも、どんな暗示であっても受け入れてしまいます。そして、いったん暗示を受け入れてしまうと、そこから適切な結論を導き出すために、厳密に論理的になり、与えられたすべての暗示を、そこから得られる結果の細部に至るまで完全にやり遂げます。

  ということは、主観的な心は完全に客観的な心の支配下にあるということです。主観的な心は最高の忠誠度で、客観的な心が自分(主観的な心)に印象づけたことを再現し、最終的な結果に結びつけます。」<第4章の私訳からの抜粋>

客観的な心と主観的な心の特徴を表形式で比較すれば次のようになります。

ここで特筆すべきは神には人格が無いという点かと思います。これを神の「非人格性」といいますが、実は、神は自分が創り出した相対的存在である人間のすべての人格を包含しているがゆえの「人格無=非人格性」なのです。「神は依怙贔屓(えこひいき)をなさらない」という言葉はこの非人格性を指しています。潜在意識(神)は誰の思考であれ、分け隔てなくその思考を受け入れて忠実に現象化します。少し話が飛びますが、この点からも、自分が不幸なのは誰のせいでもなく、もちろん神のせいでもなく、自分の思考のせいであることがよくわかります。「自己責任の原則」はまさしく真理そのものであるということです。「神も仏もあるものか」などと文句をいう筋合いはないということです。

4-2「潜在意識の具体的な働き」へつづく

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